右余極説
右翼ではなく余り極端でもなく説明したい(笑)
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臓器移植
さて、またまたしばらくの放置状態が続いてしまったが・・・来て下さる方もずいぶん減ったが、たまに覗いてくれる人がいれば良いというスタンスで・・・

ちょっと前に臓器移植法の改正案が衆議院を通過した。まだ参議院で決議されていないので、改正されたわけではない。

しかし、いちばん緩いA案が可決されたが、日本人の死生観もずいぶん変わったものだ。

いや、たぶんたいして議論していない、困っている人がいるから何とかしようという目先のことだけでのものだろうと思うが、臓器移植というのは、しないのも地獄だが、すれば天国という訳ではないと思うのだが・・・。

生きている人間のためには死んだ人間の肉体は材料ととらえても良いという考え、もしくは、そこまで行かなくても、死とは何かという問題、つまり脳死は本当に死んでいる状態なかどうかという事はどうでも良いと言えるのか。

私個人としては、脳、それも大脳の自我に関する部分がやられたらもう自分は死んでいるとみなされても一向にかまわない、むしろ、その状態では生きていたくないとすら思うし、人間の肉体など精神がなければたんなる物質と考えても、私自身はかまわないとすら思うが・・・

しかし、脳については未知なことが多い。特に子供の脳はまだ可能性がある。

12歳以下の子供が脳死した場合、そこから臓器を取り出して移植するわけだが、そんなことして大丈夫のか!?という話はまだ結論が出たとは言えない。

今後、研究や医療技術がすすみ、子供の脳死と大人の脳死が違うとわかった場合、子供の脳死を死と判定して、後からそれがひっくりかえった場合、どうするのか。もしそうならば、まだ生きていられた子供を殺してそこから臓器を取り出したことになる。移植を受けた人も苦しむことになるだろう。脳死の問題はまだ結論がついていない。とくに小さい子供の場合はわからない。

何より忘れられているのは、臓器移植すれば、バラ色の人生が待っているという訳ではなく、移植してもその後の拒絶反応やらさまざまな苦難が待ち受けているのであって、移植を受けた者が健常者並みに生活して行くことは不可能、場合によっては死ぬより苦しいこともあり得るのだが、生きているという状態は死んでさえいなければ、それで良いものと言えるのか。まあ、最近の価値観では死にさえしなければ良いみたいに思っている人が多いから、私には到底理解不能である。

このように考えることは山ほどあるが、そういうことを今の国会議員たちがまともに考えたとも思えないし、そもそも考える能力があるとも思えない。

なんとなく、かわいそうな人がいて、そういう人のために、という程度の底の浅い人気取りで今の政治家はすべて動いているような気がしてしょうがない。

それももちろん、マスコミのせいだが、日本のマスコミは目線を低くするほど良いと思っているところがある。国民の目線という意味不明のことを言う政治家も多いが、そのことについては、また時間ができた時にでも書いてみたい。

ということで、話が脱線してきたので、ここらで・・・
迷い
人はなぜ、迷うのだろうか・・・

一つには、自由だから迷うということがある。

自由で何をしても良い、どちらを選んでも良いと言われると、何か選択や判断をする「基準」を持たなければ何をどういう順番でして良いのか、決められずに迷うだろう。

良く言われる話かとは思うが、自由にして良い、何をしても良いのだと言われても、何をしてよいかわからないと、何もせずに引きこもってしまうということもあるかもしれない。

こうすべきだ!とりあえず人にそう言ってもらえることが出発点になることもある。個人なり社会なに「こうすべきだ」という常識があれば、若者もそう迷うことは無いと思うのだがどうだろうか・・・

健全な常識が無くなれば人は何を基準にして行動するか・・・たぶん「欲望」ということくらいしか無くなってしまうのではなかろうか?


しかし皮肉なことに、もう一つ、迷う理由・・・

いくつかの選択肢の中から、どちらか一つのみを選ばなければならない場合に何故迷うかを考えると面白い。この場合、欲が迷わせているということがある。

一つを選ぶということは、残りを捨てるということでもある。

どちらも捨てがたい・・・どちらも欲しい・・・その欲こそが迷いのもとである。

ビュリダンのロバという話を聞いたことがある。

空腹のロバの目の前に、二つのエサを左右等距離に置く。

すると、ロバはどちらを選んで良いか躊躇し、どちらも選ぶことができずに固まってしまい、最後は餓死するというお話だったと思う。

実際のロバで実験してみれば、たぶんランダムにどちらかに走ってエサを食うだけだろうから、これは単なるたとえ話にすぎないと言ってしまえばそれまでだが、しかし、なかなかうまいたとえ話だと思う。

人は欲で迷う。

要するに迷うことには、個人の資質として決断力の欠如という場合もあるだろうが、決断力を低下させる外的な要因としては「自由」と「基準の欠落した社会」ということがあり、内的な要因としては「己の欲望」ということがあるのかなあと思った。

それにしても、現代社会は自由社会であり資本主義は人々の欲望をひたすらかきたてる側面があるからには、個人にとっても迷い多き時代であるのは間違いなさそうだ・・・
伝統の精神こそ人間の条件
たまたま、仕事と関係ある?あまり関係無いかもしれないが、参考にと思って本を読んだら夢中になってあっという間に読み終えてしまった。忙しいのに余計な本を読んでいるなあと思いつつ読んだが、読み終わって満足している。まあ、新書なので短時間に読めるものだったし。

今日はちょっと異色の内容かもしれないが、最後のオチはなるほど、という感じで書いてみたい。
今こそ岡倉天心に習うべし
昨日の晩の10時過ぎ、ちょうど風呂からあがってくつろいでいた時間ですが、いつものようにテレビのチャンネルを落ちつきなく変えていると、NHKの「その時歴史が動いた」をやっていたので、そのまま見ることにしました。

この番組、毎週楽しみに見ているというほどでもないのですが、たまたま選局して見続けると、見て良かったと思うことが多い、かなり優良な番組だと思います。


生命尊重主義という対立軸
昨日は城内実応援サイトに応援メッセージを書かせていただいた件をアップしました。応援サイトにはいろんな考え方の人たちが集まっています。全部を詳しく読んだわけではありませんが、いろんな人が応援しているというのは重要なことだと思います。

私みたいに政治信条が近い人間が応援するのはあたりまえですが、あまり近くない人も応援しているということは、政治信条を越えた人格みたいなものがすぐれているということでもあるでしょう。

また、一般の有権者は細かい政治信条には関心が無く、むしろ人格的にまともかどうか、自分たちのために頑張ってくれそうかどうか、そういう点に関心があるわけですから、いろんな人が応援しているというのはプラスになると思います。

というか、むしろ私のようなバリバリ保守派というか右派というか、こういうタイプは一般には受けませんので、私みたいなタイプはあまり応援しないほうが良いのではないかとすら思います。

私の場合はもうひとつ爆弾があって、世論や国民を批判するという点です。世論はまだ良いのですが、国民を批判するとえらい目にあいます。

実際に批判しているのは国民(=国の歴史と伝統と義務を背負う覚悟を持つ民)にあらざる「人民」を批判しているのですが、民主主義は多数決で、多数者が主権者ですから、多数者を批判すると、多数者=正義に反するとして怒りをかうことしばしです。恐ろしい世の中です。

そういう、世間にはぜったいに受けないようなことを平気で書いてしまう私のブログが城内氏を応援して大丈夫かという意識は常に持っております。

しかし、私の性格はかなり反骨心が強くて自分でも困ることがあるのですが、もっとも強いものに逆らってしまうところがありますからどうしようもありません。

現代の日本では、そのもっとも強いものが世論であったり多数者なのですから。

ですからそういうものを批判せずにおれない性格には困っていますが、そういう多数者に決してウケないようなことを書くブログが政治家を応援してもマイナスにしかならないのではないか?と思ってしまうわけです。

それはそうと、今日の話題にもどりましょう。
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