右余極説
右翼ではなく余り極端でもなく説明したい(笑)
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真の競走は「切磋琢磨」
=自然淘汰というイデオロギー=

私も、競走というのはやはり大事だと思うし、平等というのは能力のある者にとっては居心地の悪い状態であるとは思う。しかし、最近の新自由主義者らの言う競走はちょっと違うと思う。彼らが言っているのは、生存競争のことで、これはやりすぎると良いことが何も無い。
たとえば先日、ワタミの社長が細木数子の番組に出ていて、この社長など、私からすると、グッドウィルの社長とあまり変わらない人種にしか思えない、従業員にプレッシャーをかけまくって儲けているだけのニセモノとしか思えないが、最近は政府の中央教育審議会?何か忘れたが、公的な機関のご意見番みたいなのをやっているらしい。恐ろしいことだ。

彼みたいな金儲けしかできない人間は黙って居酒屋の経営だけやって、税金をたくさん払っていればそのほうが余程社会への貢献になるということをまず理解させる必要がある。

そのワタミ社長が、学校どうしに競走をガンガンさせて、潰れるところは潰れてそれで良いじゃないか、それが自由競争ではないかと、教育に商売の原理をまるごと持ち込む暴論を吐いていた。いや、商売の原理としても、その自然淘汰めいた競争原理は間違っていると私は思う。

だいたい、相手が潰れるまでやる競走というのは一時的なものにすぎない。弱肉強食では強者が弱者を食って、それでおしまい、その後は強者による独占支配がやってくるのであり、そうなると競走は消滅する。

だから、競走というのは、誰かが誰かをつぶし合うようなものになっては意味がないのである。

「機会の平等」を担保するためには、ある程度「結果の平等」に配慮する必要があることもある。二者択一の問題ではない。

本当の競走とは、おたがいが良きライバルとしての対等な競走であり、切磋琢磨できる関係のことである。これこそが建設的な競走だと私は思う。

たとえば小学生と大学生が競走するような競走は卑怯以外の何物でもない。

弱小企業と大企業が同じ土俵で競走するもの間違っている。そんなもの、大きいところが小さいところを食っておしまいである。

本当の競走というのは、お互いの切磋琢磨、レベルに差がありすぎるというのならば、ゴルフのハンディや柔道の階級制のように、何らかのルールを定める必要がある。

弱肉強食でルール無き競走は何も良いことが無い。ただ、その時一番強い立場にいる者が有利になって世を支配するしくみを作ってしまうだけである。

そんな簡単なこともわからないワタミ社長のような競走バカが、何故日本人に増えてしまったか。

それは、能力のある者や強い者の中には、平等というのが我慢ならないということが一つと、もう一つは日本人の欧米かぶれが深刻なレベルに達していることがもう一つ。

戦後の日本というのは世界の歴史にこれまで存在してこなかったほど、経済的な平等を成し遂げたと言って良いくらいの社会を築いた。

おそらく、ワタミの社長やら竹中平蔵氏みたいな人たちは、そういう経済的な平等社会が嫌いなのだろう。中流階級がもっとも分厚くて、所得再分配をきっちりやる経済的に平等な社会というのが我慢ならなかったのだろう。

だから、改革というものに乗じて、または必要の無い改革を煽って、自分たちに都合の良い、偽の競争社会を作ろうとしているのだと思う。

それから、弱肉強食の生存競争のような種類の競走を好む習性は、やはり日本人のものというより、欧米人の、アングロサクソン系の人々に深く根付いた世界観である。

それは実は「進化論」から来ている。

ダーウィンの「進化論」を皆さんご存じだろうか。キリスト教徒は進化論を信じていないが、しかし欧米人には根深いのが、生存競争で強い者が生き残り、それが進化の原動力となっているという考え方である。

「サバイバル・オブ・フィッテスト」つまり、「自然淘汰説」「最適者生存説」である。

生物には色々な突然変異がおこり、その環境に最適な、もっとも強いものが生存競争によって(自然淘汰によって)生き残るという説である。

しかし、これは実は正しくない。これは実はほとんどイデオロギーなのである。

そうした進化論がイデオロギーであることを見抜いたのは、弱肉強食・優勝劣敗のイデオロギーに染まっていなかった日本人の進化学者である。

その名を木村資生(きむら・もとお)と言い、私の大先輩にあたる人で(苗字は同じだた血縁関係は無い)、すでに亡くなっているが、ノーベル賞級の発見をした人である。

ただ残念ながら、進化論というのはノーベル賞の対象になりにくい(化学賞または医学生理学賞、どちらも進化論は対象になりにくい)ので受賞はできなかった。そして、亡くなると受賞できない。

それはともかく、ノーベル賞に準ずるような関連の賞はたくさん受賞しており、当初はダーウィンの祖国イギリスの学会などからは猛反発されたが、その後ようやく認められて現在に至っている。

木村資生の進化論を一言で言えば「サバイバル・オブ・ザ・ラッキエスト」である。

ダーウィニストが言うように「強い者が(競走の結果として)生き残る」のではなく、「もっとも運の良いものが生き残る」つまり、すべては偶然によるものだという説である。

これを「中立説」と言う。現在では「自然淘汰説」よりも信憑性の高い説として、進化を研究する学者の間では常識になりつつあるが、西洋の社会の哲学が未だに「自然淘汰説」を信じていて、どうもその説が頭から離れないために、「とことん競走して強いものだけ生き残る経済システムこそ善である」というイデオロギーが蔓延しているのではないかと思われる。

この「中立説」の正しさを証明したのが、実は分子生物学的な解析である。

遺伝子におこる突然変異というのは、実はほとんどが個体の生存にとって有利でも不利でもない「中立」な突然変異ばかりである。

そういう突然変異が集団の中に蓄積するかどうかは、ほとんど偶然によって決まる。

そうして、一定の環境にあっては生存に有利でも不利でもない変異が蓄積してゆく。

その後、生存環境が激変したり集団が隔離されるなど、環境に変化がおこった時にはじめて、その遺伝子の変異が生存に有利になったり不利になったりする、その時に進化がおこる、というような説である。

欧米人がいかに自然淘汰をイデオロギーとして信じ込んでいるかについては、木村氏のインタビューのこの部分を読むとよくわかる。

 以前、メイナード・スミスらに「背の高さで、1mm、2mmの違いに、自然淘汰がかかると思うか。表現型レベルで中立のものがあっても不思議ではないのではないか」と話したことがあります。そしたら、「1mmでも、2mmでも、淘汰はかかる」と、猛烈に反対されました。どう考えても、そんなものに淘汰はかからんと私は思います。自然淘汰への彼らの思い入れには一種の信仰みたいなところがある。


最近の格差騒動の背景には、そういう「信仰」にかぶれだした人間が日本人にも増えつつある、特にエコノミスト連中やベンチャーだ何だと言う連中に多いということなのかもしれない。

自分たちの経済活動に理不尽な自然淘汰的な世界観を持ち込むのは勝手だが、教育問題にそれを持ち込んで口をだすのはやめてもらいたい。

教育において学校間での競走を否定しないが、本来競走が必要なのは学校経営者よりもむしろ生徒たちのほうである。

そして、学校は商売としてやるような機関ではない。基礎教育は英会話学校や予備校のような実利的なものとは根本的に違うものだということを知れ。


(参考)「分子進化の中立説」については「木村資生博士・生前のインタビュー」を参照。
コメント
この記事へのコメント
健全なる競争
 競争は、淘汰や格差助長ではなく、本来自身の「気付き」や「自助努力」ひいては「成長」を促す為のものだと思います。
 学生演劇コンクールや、吹奏楽、高校野球等のスポーツには勝ち負けよりも、人間的成長を促す教育的面での特性が備わっており、その中で日本人が育んで来た「他者への寛容」の精神が磨かれるのだと私は確信しています。
くまがわ直貴 | URL | 2008/01/19 (土) 20:56:45 [編集]
中立説
中立説については今回のエントリを読んではじめて知り、Wikipediaなども読んでみましたが、中立説を以って「自然淘汰説が正しくない」と断定するには言葉が過ぎるように思います。

中立説のポイントは、分子・遺伝子レベルで突然変異は頻繁に起きるが、それは自然淘汰に引っ掛からない(自然淘汰に対して中立な)ものが多く、それ故淘汰されずに遺伝子に蓄積されていく、ということ。仮にその遺伝子を持った個体が消滅することで突然変異の遺伝子が絶えたとしても、それは自然淘汰が直接の原因ではなく、消滅するような個体に乗ってしまった運に因るところが大きい(survival of luckiest)、ということだと思います。

つまり分子・遺伝子レベルでも自然淘汰にかかるというのが従来の自然淘汰説で、分子・遺伝子レベルではかからない(場合が多い)というのが中立説と考えればよいかと思います。逆に言えば、そのレベルを越えて、形質が如実に現れる個体レベルになると、やはり自然淘汰はかかるというべきで、これ自体は木村博士も否定していないように思います。引用されたインタビュー記事でもそのように申してますし。

ですから「自然淘汰が正しくない」ではなく、「自然淘汰では全てを説明できない」というべきかと。

それよりも中立説が示唆するところは「無駄をどこまで許容するか」ということだと、私には感じました。

分子・遺伝子レベルで突然変異がおきても、それが形質として現れないのであれば、それは無駄な作業といえます。自然淘汰がこのレベルにまでかかるのであれば、無駄な作業は真っ先に排除されるはずです。しかし中立説では自然淘汰がかからないので無駄な作業が温存される。そしてその無駄な作業が将来的に吉とでるかもしれない。

なんとなく、業務時間の20%を業務外のことに費やす「Googleの20%ルール」を想起します。
かせっち | URL | 2008/01/20 (日) 13:32:46 [編集]
あー、どうも時間がなくて、ちゃんと誤解無く書くための推敲不足でした。

私は進化論においての淘汰説が間違っているとかまで言うつもりはなく、場合によってはあてはまると、木村博士の引用先にもそう書いてありますし、それは読んで貰えばわかると思っていました。

私がいいたいのは、進化論における淘汰説を拡大して、それを社会思想の哲学みたいなレベルで信じ切っている欧米人が多い、日本人にもそういうのが増えてきたと言うことが言いたかったのです。

進化論においてすら、自然淘汰がすべてではないのだから、自然淘汰のもととなる弱肉強食が何かこの世の原理であるかのように信じ込むのは、やめたらどうかということが言いたかった訳です。
管理人 | URL | 2008/01/21 (月) 14:49:16 [編集]
了解です。言わんとしているのはそんなところだろう、と思っていましたが、用語の正しい使い方からすると誤解を生むなぁと思い、指摘した次第です。

それでも中立説の考え方には大いに示唆するところがありました。

淘汰説だと分子・遺伝子レベルまで自然淘汰にかかるわけですが、これは「現在の環境において最適化される」といえます。一方、中立説では分子・遺伝子レベルでは自然淘汰がかからないおかげで、「現在の環境では無駄かもしれないけど、将来の進化の余地を残しておく」ことになります。

どうでしょう、これは教育そのものを意味していると思われませんか?

受験という淘汰の場に最適化する余り、受験に必要な科目しか勉強しないというのは明らかに歪んだ教育です。一方、受験に直接関係ない科目でも、生徒にとって「気付きという突然変異」をもたらすだけでも教える価値があるでしょう。ここに中立説が示唆するところを見ます。

結局のところ淘汰説はマクロレベル、中立説はミクロレベルで棲み分けが可能というのが自然な解釈で、ミクロレベルまで淘汰説を持ち込むべきではない、というのが中立説の示唆するところかと思います。尤も、マクロとミクロの線引きをどこにするのかが新たな問題なりますが(汗)
かせっち | URL | 2008/01/21 (月) 21:47:26 [編集]
どうも以前ほど内容の更新に気合いが入っておらず、推敲も甘く、従って最近のエントリーはどれもツッコミ所満載になっています。

以前メールでご指摘いただいた事ですが、私のブログは、コメントのレベルが非常に高いとのことで、私も同感ですので、皆様方には、有意義なツッコミやご意見をじゃんじゃん書いていただけると、私も助かります。
管理人 | URL | 2008/01/22 (火) 12:01:49 [編集]
中立説ですね
ごぶさたしてます。

平和な時と環境が激変する時があるってのが重要だと考えられますね。

経済生活でも、自由競争と云って、のべつまくなしに競争ってのはいただけません。
そもそも、同一の種の内部では相互扶助するのが普通ですし、生殖の時期のみ争うわけですので、適者生存っていわれても、ピンとこないですね。

日本も、だいぶボロボロになったので、環境の激変にあう前に多様な業態を準備しないとダメってことでしょうか。
One of Three | URL | 2008/01/30 (水) 01:52:27 [編集]
>One of Threeさん

どうもこんにちは!ごぶさたしています。

>環境の激変にあう前に多様な業態を準備しないとダメってことでしょうか。

いえいえ、そういう話ではないと思いますよ。それは生物進化がおこるという話ですから。人間社会の処方箋にはならないと思います。

中立説は、淘汰説万能を批判する文脈で持ち出しただけですから、中立説から何かを得ようとするのは無理があると思います。
管理者 | URL | 2008/01/30 (水) 09:10:23 [編集]
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