右余極説
右翼ではなく余り極端でもなく説明したい(笑)
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市場化になじまないもの
最近は何でもかんでも民にまかせろとか、市場にまかせろとか、ただ単純に競争させろとか、商売の原理ですべてを動かそうとしています。

そのほうが「効率」が良くて「合理的」だとか!?しかし、人間というのは合理性だけで生きているわけではありませんし、徹底的な合理化が人々を幸せにできるとも思えません。

人間の生活にかかわっているもののうち、市場にまかせたほうがうまくゆく、規制が少ないほうがうまくゆく分野というのも当然あるでしょうが、最近の場合だと何でもかんでも市場にまかせれば、競争がおこって自然に秩序が生まれるかのような幻想が抱かれているようにも思います。

最近のむやみやたらな市場化や規制緩和については弊害もでてきて批判も増えてきていますが、それはルールがちゃんとしていなかったからで、ルールさえしっかり決めれば大丈夫だ、という話もあります。しかしそれでは新たな規制を作るということで、そもそもこの論は矛盾というか破綻しています。

最近の規制緩和があるいみで別種の規制強化、既得権強化につながっていることも徐々にあきらかになりつつあるからです。

何をどこまで市場化し、どこまで規制を緩和して、どういう規制を強化するか、そのあたりの良識やバランスが狂っていることが一番の問題ではないかと、変えさえすれば良くなるという変化への過剰な期待、日本流は古くて間違っているという自虐、アメリカ流こそすすんでいるという勘違いなどが根底にあるのかと思われます。
それから、市場で一番問題になるのは、それが欲望をベースにした調整メカニズムだという点です。従って、市場に公共の精神はありませんから、公的活動にかかわるものには市場による調整というのはなじみません。

市場の「効率」や「合理性」を何事においても強調する人は、やはり公的な観念が未熟なのだと思います。

市場というのは、私欲が強くて他人を押しのけてでも金儲けしたいだけの公なき人間にとっては効率的で合理的なシステムであるのは間違いありません。なんでもかんでも市場化すれば、結局、そういう人間がはびこる世の中になるだけです。

ルールをいくら決めたところで、公共の精神が宿らないものに「社会の重要なシステム」を委ねるべきではありません。社会主義にならない程度、つまり、ほどほどにとどめておくべきです。

資本主義の国であっても社会主義的な要素はあります。それを徹底的に排除すればするほど、つまり純粋な資本主義になればなるほど良くなると考えるのは単純バカです。そういうイデオロギーが蔓延しすぎています。

佐伯啓思氏が良いことを言ってくれています。


【正論】佐伯啓思 資本・労働・土地の市場化の意味

 ■土地バブルで失われた「パトリ」愛

 ≪構造改革10年で流動化≫

 2007年の公示地価が発表され、全国平均で16年ぶりの上昇に転じた。とりわけ三大都市圏の地価は、商業地のみならず住宅地においても大幅な上昇を示している。逆にいえば、依然として下げどまらない地方との間の格差がますます開いている、ということだ。この姿が健全なものではないことはいうまでもない。

 都市圏で生じている事態も、健全な景気回復というより、特定のスポットへ集中した不動産バブルである。言い換えれば、この数年の超低金利、超金融緩和によって供給された過剰資金が特定地区の不動産へと集中している。これが「官」から「民」へという構造改革の帰結だとは断じないが、そのひとつの産物ではあろう。「官」から「民」へと最も効率的に高利益をかせごうと流れ出た資金の行き先が、都心部に次々と作り出される高層ビル群とそこから同心円的に広がる不動産への投資であった。

 この10年にわたる構造改革の意味を経済学的に説明すれば、「資本」「労働」「土地」という三大生産要素を商品化し、市場化するということになる。政府によって管理された「資本」を金融ビッグバンや郵政民営化によってグローバルな市場へ放出し、日本的経営慣行を崩して「労働」を市場化し、そして、規制緩和や都市開発計画によって「土地」をいっそう流動化するということである。その結果どうなったか。株式市場を通したグローバルな投機に企業経営はさらされ、労働市場では行き場を失った200万を上回るフリーターが放置され、そして、局地的な土地バブルと景観破壊なのである。

 ≪市場化になじまないもの≫

 もともと「資本」「労働」「土地」は、通常の商品のように市場化できるものではない。なぜなら「資本」は実体的な価値をもたず、「労働」は人間そのものであり、「土地」は特定の場所や自然と切り離すことができないからである。だから、それらについては通常の商品と同様の市場取引をむしろ制約するために、規制がかかり管理がなされていた。

 構造改革はこの規制を取り外した。その結果「資本」「労働」「土地」をめぐる市場の動きは、それらの市場を著しく不安定化し、また格差をうみだすこととなる。これは「市場化」になじまないものを強引に市場競争にさらした結果である。

 とはいえ、土地バブルそのものは、すでに構造改革以前の80年代後半から生じていたものであり、ここにはもっと根深い問題がある。

 そもそも「不動産」というストックは「動産」と違って、容易にフローとして市場化できないがゆえにこそ「不動産」なのである。土地はただ「動かない」だけではなく、そこに人が住み、自然と結びついて景観を作り出し、それらのものが子孫へと伝達される特別の「場所」となる。18世紀イギリスで市場経済が勃興(ぼっこう)し、商業社会が急展開したときにも、金融資産の「動産」はいっきに市場化したが、土地という不動産は決して市場化しなかった。それは、土地は(多くは貴族の)祖先伝来のものであり、子孫へ受け渡してゆくものだったからである。

 ≪祖先伝来の土地「パトリ」≫

 祖先伝来の土地を、ローマ起源の言葉で「パトリ」という。「パトリ」を大事にするものが「パトリオット(愛国者)」である。「愛国心(パトリオティズム)」とは、まずは自分の住んでいる場所への愛着から始まる。かつては、祖先伝来の場所と景観を守ることは貴族の義務であった。「民主主義とは万人による貴族政である」と西田幾多郎は述べたそうであるが、もしそうなら、今日、それぞれ自分の住む場所を守り、誇りをもち、責任をもつということこそが、人々の義務ということになろう。

 土地とは、ただ登記によって確保された所有権だけの問題ではない。土地は、その場所のもつ自然性、記憶、近隣、そして景観と不可分である。つまり経済学的にいえば公共性をもっている。心理学的にいえば、愛着と記憶の基礎となっている。

 「故郷(ふるさと)」などという観念をわれわれは、今日、放棄しようとしている。「故郷」の観念は自分の住む場所、つまり「パトリ」への愛着がなければ成立しない。とすれば、土地の度を過ごした市場化、ましてや投機的利益を生み出すための土地バブルなど、「パトリ」の破壊、つまり「亡国」への愚行以外の何ものでもないということになろう。(さえき けいし=京都大学教授)

産経新聞



ここでは市場になじまないものとして「資本」「労働」「土地」をあげていますが、最近はこれだけでなく、もっと市場になじまない「教育」や「医療」にも市場原理を持ち込んで商売人の発想で、つまり公無き私の発想でなんでもかんでもやろうとしています。

愚かな人間が増えたということなのでしょう。

「資本」「労働」「土地」の市場化をこれ以上すすめてはいけないし、そして「教育」や「医療」を市場化し(過ぎ)てはいけないと思います。いずれも、すでにある程度は市場化されています。

たとえば教育については、学校間で競わせて人気のある学校には補助金を多く出すようにするというような「改革」が検討されていますが、それでは生徒がお客さんになってしまい、教育などできませんし、不人気な学校ほどダメな学生が集まるわけですから、むしろそういうダメな学生にはある一定の金をつぎこんでまともな社会人に教育するというような必要すら生じるわけです。

逆に、大学については今規制緩和で滅茶苦茶増えています。これからは少子化で学生数が減るのにです。これも大学間で競争させようということですが、やることが逆です。競争すべきなのは学生のほうです。

そもそもみんなが大学まで行く社会が間違っています。今更どうにもなりませんが。誰も彼もが大学に行くから、誰が社会の責任を背負って立つ人なのかわからなくなってしまっているのです。

昔は大学まで行って勉強する人というのは世の中のためにつくす人々だという感覚があったと思います。今はみんな自分の就職のために進学するわけですから。大学はもっと減らして、もっともっと狭き門にしてゆくべき、学問をしたり社会に役立とうとする人間以外は大学以外に職業訓練学校や職人養成学校のようなものを作ってそちらに入れるべきです。

とちょっと話がそれましたが・・・

ところで、話をもどすと、佐伯氏が書かれた本でこれは参考になります。

ケインズの予言 ケインズの予言
佐伯 啓思 (1999/06)
PHP研究所

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別にケインズ流の経済学を復興させよという話ではありません。最近のグローバリズムの流れにおいてなにがおかしいのか、どういう問題がおこるのかをケインズは預言していたという、佐伯氏の解釈ですが、グローバリズムの流れに疑問を感じない方にぜひ読んでいただきたい本です。

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コメント
この記事へのコメント
皆さん既読やも知れませんが、佐伯氏の
「欲望と資本主義」 -終わりなき拡張の論理- (講談社現代新書)

15年程前の新書版ですが、資本主義という欲望の流れを整序する装置は何だろうかを考察した名著だと思います。

滋賀大から京都大へ移られた頃と記憶していますが佐伯先生は昔から西部氏のお弟子さんの中でも極めて文体が明瞭で理解しやすいですね。実際にお会いすると物静かでそのぼくとつとした話し方は論理構築におけるシャープ感とのギャップを感じ、益々ファンになりました。

これらの書籍が大型書店平積みになれば、世の中も少しは真っ当になるような気がしますが。
Ma.wakizasi | URL | 2007/04/19 (木) 10:29:08 [編集]
無題
僕の大学時代の友人に佐伯先生の大ファンがいて、彼は佐伯先生の弟子だといってました
別の大学でしたがわざわざ京都大学まで会いに行ってたそうです
僕も大学のレポートでは佐伯先生の著書にお世話になりました
落ち武者 | URL | 2007/04/20 (金) 01:09:01 [編集]
>Ma.wakizasiさん
ご紹介の本は、出ているのは知っていましたが、まだ読んでいません。いずれ読みたいと思っています。実は私も京都発言者塾というのに1度だけ出たことがあって、お話を聞いたことがあるのですが、おっしゃる通りの印象でした。

>落ち武者さん
なるほど、おっかけのようなファンがいるのですか。私が佐伯氏の本を読んで印象だと、細かな知識を並べるのではなく、幅広い範囲の問題について、総合的な見地からそれを解釈するという感じなので、実は私もこういう事が大事だと思っていて、その点に感銘を受けました。
今、何でも細かく細分化して専門家は増えていますが、狭い領域しか知らない専門家の意見が通りすぎ、全体を捉えて総合的に判断する人間がいないから政治も学問もおかしくなっているような気がします。
日村春介 | URL | 2007/04/20 (金) 08:49:13 [編集]
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