右余極説
右翼ではなく余り極端でもなく説明したい(笑)
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最近の戦争物のつまらなさ
みなさん、こんにちは。更新がとどこおっていて、すみません。ちょっと手一杯なもので。

忘れられてしまわないように、今日はアップしておきたいと思いますが、自分で何か書くことができるほどの状態でもないので、引用メインでお茶を濁す感じですが、申し訳ありません。

ところで、「硫黄島からの手紙」がアカデミー賞にノミネートとか言う話を聞きましたが、ここで書いた通り、私はこの映画はイマイチ良かったと思えない部分があります。さらにここで書いた通り、最近は白虎隊まで歪めてドラマ化するなど、世の中どうなっちゃっているのかと思ってしまいます。

そしてマスコミなどを見ていると、「硫黄島からの手紙」はあいかわらず絶賛されているし、白虎隊のドラマにしても好評だったようで、私のような感じ方をする人はほとんど誰もいないかのようです。
と思っていたころが、新聞を読んでいると、どうやら私と似たようなことを感じた人がいたようであることを発見しました。

まあ産経新聞に連載されている西部邁氏の「保守再考」だったのですが・・・。ということで、備忘もかねて引用しておきたいと思います。

保守再考(36)

戦争物はなぜつまらないのか

私心と公心

 私には幼いときから「敗北の美学」のような感覚が少しあるようで、だから、新撰組、会津白虎隊そして(バラオ・ペリリユウ島や硫黄島の)玉砕部隊の物語などには、眼を凝らさずにおれないできた。そんな次第で、年末にはC・イーストウッドの硫黄島映画二本を観覧したのみならず、遺族会にまぎれ込んで(十二月八日の真珠湾攻撃記念日に)実際に硫黄島の地を踏んでもみた。そしてもちろん、年初にはテレビで白虎隊物語の上下を観た。

 しかし近年の戦争物語は、実際の出来事を多少調べた者としては、並外れて出来が悪い。胸が悪くなる、と悪態をつきたくなるくらいに読後感や観後感がよくない。その原因もわかっていて、そのうちで最大のものは、登場人物たちにおける「私心と公心」の「葛藤のドラマ」が描かれていないということだ。その種の葛藤においてこそ、戦争における生と死の意味が、それゆえに作品の面白さが宿るはずである。それなのに、世間では、ドラマなき物常にたいして「命の尊さを教えてもらった」というような評判が寄せられている。

   □  □

 私心では死にたくないが公心では死んでみせようと構える、公心では死を覚悟するが私心では死を避けようとあがく、その葛藤が戦争ドラマの真骨頂ではないのか。そしてその葛藤は、戦争にあっては、おおむね公心によって制覇される。しかし厳密には、予測しえない要因を多々含むという意味での「危機」の成り行きに、いいかえれば「状況」の展開に、ドラマの結末は依存するのはかはない。そういう戦争物語が読んだり観たりするのに値する。

 死にたくない人間が死んでしまうのはかわいそうとか、人間を死に追いやる政府はひどいとか、そんな紋切型の話には、やはり、低級作品の烙印を押すしかあるまい。その烙印を勲章ととりちがえる連中には、私心においてすら最も恐ろしいのは永遠に死ねないことではないのか、と私は皮肉ってやる。しかしその皮肉が通じることはほとんどない。結局、ソクラテスの真似をして、通じない皮肉は皮肉とはいえないのだから、皮肉の語り口に工夫を凝らす以外に手はないことになる。

   ロ  ロ

 人間を猿以上の存在にしているのは「言葉を操る能力」によってであろう。しかし言葉は、みかけでは個人が現在において発するものではあるが、その根源は歴史という名の時間のなかにあり、その効力も社会という名の空間において発揮される。そして歴史といい社会といい、それらを成り立たせているのは各世代の人々における公心の連続であり、各地の人々によるその共有なのである。

 たとえば、公心を戦後世代が継承したのなら、大東亜戦争におけるどんな死も犬死にでも無駄死にでも徒なる死でもありはしない。公心を継承しようとはせぬ者だけが「負ける戦争はするな」とか「負けっぶりをよくしよう」といって、利口ぶる。戦争物の作品は、戦後はもう六十年以上も閲したのに、まだお利口さんたちによって作られつづけているようである。


ちなみに「命の尊さ」をいくら教えてみたところで、いじめ自殺はなくならないと思います。命が尊いのなら、その尊い命を捨てるほど辛いのだという表現が可能となり、むしろ自殺のモチベーションを高めるだけでしょう。

戦後60年、ひたすら「命の尊さ」をおかしな形でばかり取り上げすぎてきたのではないかと思います。とにかく生きてさえいれば良いとか死んだらすべて終わりだとか、そういう底の浅い「尊さ」ばかり言われていました。それでは「命は尊い」というより「生きていないのは勿体ない」という程度の事でしかないと思います。

命は無条件に尊くあるわけではなく、その生き方によって尊くもなれば、逆にくだらなくもなり得るのでしょう。だから、「尊い命」であるためにどう生きるか、またはどう死ぬのかまで考えてはじめて命の価値というものが理解できるのではないかと思います。

世界最長の長寿を誇るこの日本で、戦争でバタバタと人が亡くなっているわけでもないこの日本で、ただ生きていれば良いという程度の生命論が幅をきかせています。

ただ生きていて面白おかしく暮らすことばかり煽り立てるのではなく、尊い命であるためにどう生きるか、そういう事をもっと考えなければならないのではないでしょうか。

まあ、私自身、どこまでそういう生き方を考え実行できているのか?と問われると、返答に窮してしまいますが・・・。せめて先人達の生死におけるギリギリの葛藤を上から見下し裁くようなことはしないでおこう、くらいには思っています。

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コメント
この記事へのコメント
>私心では死にたくないが公心では死んでみせようと構える、公心では死を覚悟するが私心では死を避けようとあがく、

昔、西部氏と一緒に飲んでいた時、何度となくこの話になりました。特攻の際 「おかあさーん」(私事)と叫べばその後の言葉は 「助けてください」と続かざるを得ないのが常人でしょう。 従って、護国の神となって突っ込むには、“歯をくいしばっても” 「天皇陛下ー、万歳」(公事)と気合を入れなければ「特攻」できないじゃないか。
そんなことすら考え付かない“頭”で「本当は、~だったんじゃ‥」と想像され、ドラマにされてもね。 「困ったもんだネ‥」 ってな会話でした。

何度も愚生が申すように「公私混同」についてです。
以前のスレと重複しますが、私見では“パトリ”はこの「おかあさ~ん」に通じるものを感じてしまい、「愛国心」の一面に過ぎぬのではないか、従ってここのところをよく整理しておかないと「偏狭な民族主義」になりかねない危惧を抱くのです。

冒頭の西部氏曰く
『私心では死にたくないが公心では死んでみせようと構える』 尊さをわからなければ
「戦死」も「靖国」も噛み合わない不毛の論議となってしまうのでしょう。
Ma.wakizasi | URL | 2007/01/28 (日) 11:36:22 [編集]
白虎隊ドラマは「立派に死ななければならない」というドラマでしたよ。テレ朝らしくもなく。
ただ、朝日新聞の評と出演者が収録後語っていた部分は明らかに朝日教でしたが、それはドラマの主題と微妙に違うように感じました。私もジャニーズは気に入らなかったですが。
少なくとも「命の大切さ」をあのドラマから感じる人は相当朝日に戦争されている人以外いないと思います。

私心と公心については同意です。お利口さんたちによる偽善はもう通用しないと思います。
| URL | 2007/01/28 (日) 12:24:11 [編集]
パトリオティズムを“偏狭な民族主義”に短絡させるのは、偏狭なナショナリズム。

「天皇陛下万歳!」と叫びながら敵艦に突っ込んで行った特攻隊員達は、母のため、妻のため、娘のため、故郷のために死んだのだ。 

掛け替えの無い愛を知らぬ人間に、命を棄てる資格など無い。
rice_shower | URL | 2007/01/28 (日) 16:10:12 [編集]
戦争物についてまわる視聴者・演技者の感想に必ず出てくる「命の尊さを教えてもらいました」
ほんとかいな!と心の中でツッコんでます。
まったく胸に響いて来ないコトバですな。
おまいら「命の尊さ」言いたいだけちゃうんか。
病気の時、死の予感や危機から逃れた時に、ふと見上げる空の青さや春の風のにおい、学童達の笑い声に涙がでるほど感動した。そしてこれを感じることが出来る生きている今を感謝すること、それこそ「命の尊さ」を知ることだと思っています。
春一番 | URL | 2007/01/28 (日) 23:08:10 [編集]
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