右余極説
右翼ではなく余り極端でもなく説明したい(笑)
人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ

コメント歓迎ですが「こちら」をお読み下さい。

今年の漢字は「命」
今年の世相を表す漢字一文字に「命」が選ばれたそうです。何年か前には「金」が選ばれていたような気がするのですが・・・。命が大切であることには何の異存もありませんが、この件に関しては色々と言いたいことがあります。

今年の漢字は「命」 清水の舞台で初披露

 1年の世相をひと文字の漢字で表す恒例の今年の漢字が「命」に決まり、12日、京都市東山区の清水寺で発表された。秋篠宮家に男子が誕生した一方、いじめや生活苦で自らの命を絶ったり、虐待で幼い命が失われたりする事件が相次ぎ、命の重みや大切さを感じた人が多かったようだ。

 日本漢字能力検定協会(下京区)が全国公募し、これまでで最も多い9万2509人の応募があった。「命」は全体の1割弱の票を集めた。飲酒運転による事故死や竜巻などの自然災害、さらに北朝鮮による核実験なども、命に不安を覚える出来事として反映された。

 2位は皇室に悠仁さまが生まれたことなどから「悠」、3位は「生」。以下「核」「子」「殺」「球」と続いた。

 この日は昼過ぎまで降った雨に配慮し、12年目で初めて「清水の舞台」で漢字が披露された。森清範貫主が大きな筆で「命」の字を一気に墨書した。森貫主は「『命』が選ばれたのは人々に深い苦しみが潜んでいる表れ。いのちを敬い、尊重しあうことに心して、きょうの字を書いた」と話した。

最終更新:12月12日23時17分


とにかく、戦後の日本人が何より大切にしてきたものには三つあると思います。一つは「命」、そして「金」と「技術」です。

「生命」も「貨幣」も「技術」もどれも手段としての価値だと思いますが、とにかくこれらの「手段」を大切にして守るのが最優先にされてきて、いまだにそれは変わっていません。ここに日本人の目的喪失が見て取れます。

もちろん、貧しさが支配する戦後においては、金や技術によって「豊かさ」を目標に頑張ったわけですが、その「豊かさ」という目的が実現された現代においては「豊かさ」は目的たりえないわけです。

そこでさらに金を増やしたり技術を向上させることに意味を見いだそうとするならば、豊かさ以外の目的が必要になる、「豊かさ」を別の目的実現のための手段と考える必要があります。

また、これら3つの手段のうち、戦前と比較してもずばぬけて大切にされているのが「命」です。

もちろんつねに死と隣り合わせのような状況ならば、生きていることそれ自体が目的にもなるでしょうし、貧困にあえぐ状態ならば、金を得るということが目的にもなるでしょうし、資源がないからには技術に頼るしかないのでしょう。

しかし、命ということで言うならば、産まれたばかりの赤ん坊とか、生きるか死ぬかの病人、まともに生きてゆくことさえ覚束ない障害者などを除いた健常者な大人にとっては、「生きることそれ自体」が第一の目的になることはあり得ないのであって、「いかに良く生きるか」が目的となる、つまり命とは「良く生きるための手段」であるということになるはずです。

戦後平和主義の日本ではそのことが見過ごされてきました。それに異議をとなえたのが三島由紀夫です。彼は戦後日本のこうした空虚さに対して「生命尊重のみで魂は死んでもよいのか」という言葉を最後の檄文でつきつけたのです。

世界最長の平均寿命を誇るこの日本で、しかも大半の日本人が、「生きる目的」を見失っているとしか思えないような、「生き甲斐の喪失」と言われる現状において、手段的価値である命について声高に、これこそ最大の価値であると叫ぶのは、どこか間違っているのではないかと思わざるを得ないのです。

ただ、「生きる目的」がどんなものであっても、それは命という手段があってこそ可能になるのだから、手段的価値のなかで命がもっとも大切であるというのはわかります。しかしだからと言って、前後見境無くとにかく「命あっての物種だ」とか、命を危険にさらすようなことは絶対にしてはいけない、命こそとにかく守られなければならないと考えてしまうのは、金はとにかく大切だから使わずにひたすら貯金しておこうと考えるようなものです。

つまり、手段とは目的の実現過程において消耗してゆくのが当然だからです。

命をかけてこそ実現できる、もしくはそういう気持ちに自分を駆り立てることによってはじめて追求・実現が可能になる事が、人間の生き方においては存在するはずです。

少なくとも、大東亜戦争を振り返ってみるとき、このような考え方が一片もなければ、あの戦争はバカな戦争だったという見方になってしまうでしょう。

戦後の日本人がひたすら生命尊重主義に傾くのであれば、あの戦争を愚かな戦争であったと考えるのは当然かもしれません。

命と金と技術という手段をひたすら大切にする現代の日本人からあの戦争を見れば、せいぜいが「ゼロ戦は当時世界最高の性能を誇っていた」とか「日本の造船技術は世界一であった」とか、それくらいの事しかあの戦争に関して誇れないと思うのは当然でしょう。

しかし、私は命がけで自分たちの国の尊厳をかけて戦った、圧倒的な国力のある米国の理不尽さから逃げずに戦ったことはやはり立派だったと思います。それは生命尊重主義からは導き出されない結論でしょう。

そう考えてみれば、戦後の日本で大東亜戦争の肯定的側面が取り上げられないのは、当然かもしれません。しかし、あの戦争中には手段としての命も金も技術も大切であったのは確かですし、それら手段がかなり浪費されたのは間違いありません。ですから、あの当時に手段としての命の大切さを訴えたならば、それは立派な事だったと思います。

しかし、誰もが70歳、80歳まで生きるのがあたりまえになっている現代においてならば、生きているあいだに何をするべきか、どう生きるべきかがもっと問題にされなければならないと思います。

ただ、私はこの戦後の風潮というか、今年の漢字に選ばれた「命」を大きな筆で墨書していた清水寺の僧侶の言っていた「命よりも大切なものはない」という言葉ですが、誰もがそこまで言っている割には、実は本当は皆そうは思っていない、そんなに深く考えずに、とりあえずきれいごととして言っているだけなのだのだろうと思います。

これだけ戦後ずっと「命は大切だ」と言われ続けてきても、自殺者は後を絶ちません。また、飲酒運転のことばかりが言われますが、年間の交通事故死亡者数は1万人近くにものぼります。平成に入ってからだけでも、交通事故で20万人近い人が亡くなっているわけです。

さまざまな努力によって交通事故の死亡者数は徐々に減少傾向にあるとは言え、生命こそ最高の価値であるというのならば、交通事故によって一人の死者も出さないためには、今すぐ国内から自動車を追放せよという国民運動がまきおこらないのは何故でしょうか?

自動車がなくなれば生活して行けなくなる人が大量に出るとは言え、すぐに死ぬわけではないでしょう。しかし自動車が道を走っている限り、今この瞬間にも誰かが死んでいるのです。

時々刻々と自動車のせいで人が死んでいても、ほとんど誰も自動車をなくせと言わないのは、自動車をなくすことが現実に不可能だからという理由からだけではないと思います。

なぜなら、実際には不可能なのに憲法を守れとか原発をなくせとか無防備地帯宣言だとか、きれいごとのために理不尽なことを言う人は世の中に山ほどいるからです。

結局のところ、誰もが自分たちの便利な生活を維持するためには、ある一定数の不運な犠牲者が必要になるのは仕方ないと暗黙のうちに了解している、とまではさすがに思えませんしそこまで冷酷な人はそういないでしょうから、結局はそこまで物事を深く考えずに、ただきれいごとに流されているだけなのでしょう。

つまり、戦後の日本においては、「命は大切だ」ととりあえず言っておきさえすれば、とにかくまわりのみんなも「そうだね、その通りだね」と同意してくれて、お互いが善人になった気分に浸れる、そのための便利な言葉にすぎないのだ、という程度のものなのでしょう。

↓クリックしていただけると書く意欲が増します。


↓お手数おかけしますが、こちらもクリックしていただけると助かります。
にほんブログ村 政治ブログへ
コメント
この記事へのコメント
私自身、社会に出てから今日まで、一貫して金と技術を競うビジネスの世界に生きてきました。 アメリカをやっつけて溜飲を下げた事もあった、最近は韓国、台湾に追い抜かれ慨嘆することが多い。 そういう自身の心の浮薄を感じたとき、思い起こす言葉があります。
「このまま行ったら日本はなくなってしまうのではないかという感を日増しに深くする。 日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュ-トラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう。」
この三島の声にシンクロする感性が失せるようなら、私の生は無価値なものとなる、そう考えています。
rice_shower | URL | 2006/12/17 (日) 06:58:07 [編集]
命以上の価値

>つまり、手段とは目的の実現過程において消耗してゆくのが当然だからです。

当然です。
手段を目的以上に大切にするのは愚行です。
kuni | URL | 2006/12/17 (日) 07:58:16 [編集]
>rice_showerさん
三島というのは本当に先が見える人だったんでしょうね。引用されている言葉なんか読むと、本当にそう思います。

>kuniさん
目的と手段というのは難しい話でもあって、当初は目的と思っていた物が、それが達成された瞬間に次なる高次の目的のための手段であった、ということはよくある事だと思います。

そこらあたりをもっと皆が深く考えるべきではないかと。
日村秋介 | URL | 2006/12/18 (月) 13:43:56 [編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
copyright © 2005 右余極説 all rights reserved.
Powered by FC2ブログ. | Template by Gpapa.