右余極説
右翼ではなく余り極端でもなく説明したい(笑)
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迷い
人はなぜ、迷うのだろうか・・・

一つには、自由だから迷うということがある。

自由で何をしても良い、どちらを選んでも良いと言われると、何か選択や判断をする「基準」を持たなければ何をどういう順番でして良いのか、決められずに迷うだろう。

良く言われる話かとは思うが、自由にして良い、何をしても良いのだと言われても、何をしてよいかわからないと、何もせずに引きこもってしまうということもあるかもしれない。

こうすべきだ!とりあえず人にそう言ってもらえることが出発点になることもある。個人なり社会なに「こうすべきだ」という常識があれば、若者もそう迷うことは無いと思うのだがどうだろうか・・・

健全な常識が無くなれば人は何を基準にして行動するか・・・たぶん「欲望」ということくらいしか無くなってしまうのではなかろうか?


しかし皮肉なことに、もう一つ、迷う理由・・・

いくつかの選択肢の中から、どちらか一つのみを選ばなければならない場合に何故迷うかを考えると面白い。この場合、欲が迷わせているということがある。

一つを選ぶということは、残りを捨てるということでもある。

どちらも捨てがたい・・・どちらも欲しい・・・その欲こそが迷いのもとである。

ビュリダンのロバという話を聞いたことがある。

空腹のロバの目の前に、二つのエサを左右等距離に置く。

すると、ロバはどちらを選んで良いか躊躇し、どちらも選ぶことができずに固まってしまい、最後は餓死するというお話だったと思う。

実際のロバで実験してみれば、たぶんランダムにどちらかに走ってエサを食うだけだろうから、これは単なるたとえ話にすぎないと言ってしまえばそれまでだが、しかし、なかなかうまいたとえ話だと思う。

人は欲で迷う。

要するに迷うことには、個人の資質として決断力の欠如という場合もあるだろうが、決断力を低下させる外的な要因としては「自由」と「基準の欠落した社会」ということがあり、内的な要因としては「己の欲望」ということがあるのかなあと思った。

それにしても、現代社会は自由社会であり資本主義は人々の欲望をひたすらかきたてる側面があるからには、個人にとっても迷い多き時代であるのは間違いなさそうだ・・・
コメント
この記事へのコメント
お帰りなさい
遅ればせながら、ブログの再開、祝着至極に存じます。

ぼちぼちと拝読させていただきたく思います。日村さんもまったりリズムで更新してくださいませ。

「迷い」 ですね。 
むかーし、西部先生…。 「Choice(選択)できなけりゃ、昼飯も喰えないじゃないか、飯どきに蕎麦が喰いたいのか、寿司が喰いたいのかも分からないってお前さん、どおゆう事?」 なんてのが 【相対的価値批判】の枕詞だったと記憶しています。

絶対的価値、上等・下等、優劣…、価値の基準は何か、その判断の前提はなんぞや…

選択できない(迷う)のは“価値基準”がないから! と当時は納得していました。
その後、子供らの成長過程において、【一つだけだぞ!のお菓子が選べない】、【スヌーピーとキティどっちのお皿で食べるかで泣くほど迷う】等々の大事件から “どっちも欲しい!” という正しく日村さんのおっしゃる >内的な要因としては「己の欲望」ということがあるのかなあ と。

大人とて仮に、価値基準・優先順序が理解出来たとしても、一つを選択するということは、他方を捨てることに他ならないため「己の欲望」と決着をつけねばならないですね。

この厄介な「欲望」に抗えるのはさて…。
「美意識」という名の“やせ我慢”くらいでしょうか。

Ma.wakizasi | URL | 2009/04/21 (火) 00:32:24 [編集]
Ma.wakizasiさん、どうもご無沙汰しておりました。

欲で迷うもしくは基準で迷う、そこでしかし何か決断しなければ生きて行けないということはありますねー。

決断力・・・むずかしいものです。
管理人 | URL | 2009/04/21 (火) 16:50:08 [編集]
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