この番組、毎週楽しみに見ているというほどでもないのですが、たまたま選局して見続けると、見て良かったと思うことが多い、かなり優良な番組だと思います。
民放だと、こういう歴史番組は、多数のパネラーみたいな余計な芸能人が出てきて、肝腎なところでクイズ形式にして無意味に間違った答えを聞かせられてイラついたりしますが、NHKの教養番組ではそういう作りのものが少ないので、良質です。
この番組も、キャスターの松平氏の他にゲストで出るのは専門化くらいなので、落ち着いて見ることができます。
さて、今回の内容ですが、これでした。
第324回 日本人の心を守れ 〜岡倉天心・廃仏毀釈からの復興〜
私は、妙なドラマとか見てみんなが泣いているような場面でも失笑してしまうくらいの人間なのですが、恥ずかしながら昨日はこの番組を見て、涙が出てきました。
最初から集中して見ていたわけではなく、途中からたまたまチャンネルをあわせて見ただけなのですが、どんどん引き込まれてゆきました。再放送もあるようなので、皆さんには是非みていただきたいと思います。
岡倉天心は、もしかして皆さんのほうが私より詳しい方も多いかもしれませんが、明治時代に仏像などの文化財の修復に尽力した人です。
NHKのホームページから引用しますと、ざっとこんな感じです。
大勢の観光客が訪れる古都・奈良。出迎えるのは1000年以上のときを経て今に伝わる仏像の数々。しかし今から140年前、それらの寺や仏像は消滅の危機に瀕していた。きっかけは明治維新の最中に起きた仏教排斥運動、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)。仏像は壊され、薪として燃やされてしまう。
仏像を救おうと立ち上がったのが近代日本美術の発展に多大な功績を残した岡倉天心だった。急激な西欧化を批判した天心は、文部官僚として10年間で21万件もの仏像や文化財を調査、文化財保護の法律を作るよう訴えるなど、その保護に力を尽くす。
しかし、いよいよ東大寺法華堂の不空羂索(ふくうけんさく)観音像の修理に取り掛ろうとした時、天心は問題に直面する。つまり「仏像は部分が欠けていると信仰の対象となりにくいが、かと言って闇雲な修理をすれば美術品としての価値を損なう」ということだった。悩んだ末、天心は美術と信仰の両方の価値観を満足させる「現状維持修理」という方法に行き着く。
仏像保護を通じて、そこに込められた「日本人の精神性」を守ろうとした岡倉天心。番組では、本質を見抜く目を持った天心の生涯を追い、捨て去られようとしていた日本古来の伝統美術が、いかに今日の我々に伝えられたか、その知られざるドラマを描く。
この天心が生み出した「現状維持修理」とは、仏像の持つ二つの価値、「美術品としての価値」と「信仰の対象としての価値」の両方を損なわない画期的な修復方法なわけですが、天心がすばらしいのは、そういう技術を生み出したということだけではありません。
彼の考え方そのものが素晴らしいから、そういう素晴らしい方法の発見に行き着いたのだと思います。
時代は明治維新以後、ひたすら日本は西欧化して、西欧=すばらしい、日本=古くて原始的、日本は西欧のようになるべきという風潮であふれかえっている頃でした。
美術品も、日本の美術品など価値がなく、西洋の美術品に力を入れるべきという日本人であふれかえっていたようです。
またまたNHKのホームページから引用します。
「ベルツの日記〜今の日本人は過去について…」
ベルツは、ドイツの医学者。1876年(明治9年)東京医学校教師として来日、日本医学の発展に貢献した。また、日常の出来事や目にする日本人の様子を記した「ベルツの日記」は、明治日本の様子を客観的に記録した資料として高く評価されている。抜粋したのは1876(明治9)年の記述。
抜粋部分は「今の日本人は過去についてしきりに恥じている。中には『我々日本人には歴史はありません。今からやっと始まるのです』という人さえいる。」
自国の過去の価値をわからず、ひたすら海外がすぐれていると思い、その真似ばかりしたがる、同化したがるという習性を持つ日本人というのは、どうも昔からいたようです。
日本人は中国人と違って、「自省」の感覚を持つ謙虚さがあり、それは素晴らしい面だと思いますが、行き過ぎると簡単に自分たちの過去の歴史を否定して外国にばかり目が行ってしまうのかもしれません。
天心をおとしめる怪文書
明治31年3月「築地警醒会」の名で関係者に郵送された文書。岡倉天心を誹謗中傷する内容が書き連ねてある。この怪文書をきっかけに、岡倉天心は東京美術学校の校長職などを追われるが、その背景には、美術界における洋画派やそれに同調するジャーナリズムの、伝統美術を重要視する天心の姿勢への反発があったと考えられている。
抜粋部分は、「幾萬ノ國財ヲ費シテ」「美術自然ノ発達ニ背馳シ大ニ其ノ進歩ヲ障礙セリ」(幾万の国の財産を費やしておきながら、美術の発達に背を向けその進歩を妨害している)
天心は、一語一句正確ではありませんが、だいたい以下のような考え方を持っていたようです。
仏像というのは、単なる物体としてあるのではなく、その形には過去の人々のものの考え方・とらえ方などが集約されている。現代の我々が仏像を見ることによって、そうした昔の人々の考え方に接することができる。仏像を通して過去の人々と現代の我々が会話することができる。それは素晴らしいことである。
のようなことを考えていたようです。さらに、こうも言っています。ふたたび引用です。
天心の言葉
岡倉天心が1904(明治37)年、ニューヨークで出版した「The Awakening of Japan」(日本の覚醒)より抜粋、意訳した。
抜粋個所は、「昔から日本には外国からの思想が殺到してきたが、日本人は伝統を尊重し、自らの個性を大切にしてきた。」「われわれは今後もさらに西欧化していこうとしているが、世界から尊敬を得るには、われわれ自身の理想に忠実であることを忘れてはならない。」
いつも「日本は遅れている」という概念に囚われて、なんでもかんでも外国の真似ばかりしたがる人たちに聞かせてやりたい言葉です。
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(追記)
ちなみに上でベルツというドイツ人医師の言葉が引用されていますが、旧ブログの「■[社会][歴史] 日本とは?日本人とは?」でもベルツの言葉を引用しています。
(ベルツの言葉)
もし日本人が現在
アメリカの新聞を読んでいて、
しかもあちらのすべてを
真似ようというのであれば、
その時はーーー
その時は、日本人よさようならである。
(↓より引用)
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>いつも「日本は遅れている」という概念に囚われて、なんでもかんでも外国の真似ばかりしたがる人たち
日本国内にはこういう人がとても多いですね。ところが、こういう人に限って外国に出ると、日本の物は素晴らしい、アメリカなんてクソだ、というように、正反対の極論を言ったりするわけです。
もう少し自分たちのものに誇りを持ちつつ外国のものを冷静に見れるようになれないものでしょうか?これは、自分たちの文化に対する誇りをしっかりと教育していないが為にこのような極論に振れる人が多いという解釈でいいんでしょうか?このような意見を聞くたびにかなり脱力します。
岡倉天心は、新渡戸稲造や内村鑑三と同時に西洋に日本の本質を紹介した人物です。日露戦争の真っ最中で、当時西洋では黄禍論が高まっておりました。それこそジンギスカンの軍隊が再び侵略するのではと恐れていました。
岡倉は日本の伝統文化に内蔵された美意識や価値観を世界に広めて、日本は野蛮ではない。貴方方と同じ高い倫理を持っている。というようなことを訴えました。それと同時に、西洋の繁栄が東洋などを犠牲にして成り立っていることも指摘しました。
新渡戸や内村は武士道をキリスト教に見立て、日本人の倫理観を簡潔に説明しました。
自分は常日頃考えていることですが、日本人は武士道の倫理観で生きていくべきだと思います。生命尊重の話もそうですが、武士道精神こそが日本人の核を成す物だと思います。明治期の日本人が国際社会を渡りきるにはどの様な振る舞いが求められるのかと思索していたのではないでしょうか?その結果が武士道に行き着いたのだと考えております。
勿論、日本人の価値観が武士道だけとは限りません。現代の民主主義も平和主義も「日本ならでは」があっても良いと考えております。
このブログのコメント欄を見ていただけるとうれしいです。
http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/570695/#cmt
ここで私が述べた意見はある意味「釣り」みたいなものですが、けっこう面白かったです。日村さんに教えていただいたことをかなり援用させていただきました。
小泉改革の信奉者というのはサヨクの転向者が多いのかもしれません。戦後体制の欺瞞の上に小泉流をかぶせただけみたいです。
jtakeさん、コメント拝読しました。
確かに現在の共産独裁の支那よりも、民主主義の方がよいかと思い…
…と行きたいのですが、「民主主義」の「民」とは、「国民」という意味です。支那で国民とは「中国人」の事なのです。従って、支那13億の民が一斉に「中国人」とならなければならなくなり、チベット人もウィグル人もモンゴル人も全て中国人化しなければいけないのです。
日村さんも仰っておりましたが、「国民」とは「国の歴史と伝統と義務を背負う覚悟を持つ民」の事です。その前に古森氏の民主主義観は非常に稚拙な見方としか思えません。日本だろうと韓国だろうとフランスだろうと、「国民」が主権者の「民主主義」であるはずで、マトモな民主主義には歴史や良識が必要なのです。それは国によって歴史や伝統等が異なります。支那には13億の民と、言葉も文化も異なる56の民族が雑居していますし、中国語として統一されていないのです。
国民が成熟していない支那で民主主義化することは難しいでしょう。それに支那が民主主義の方に向かうなら、チベット人やウィグル人も漢民族に同化されなければならなくなってしまう。
例えば、香港人は自らを「Chinese」と言います。これは「中国国民」と言うより「中華思想」の方が当てはまるのではないでしょうか。今も共産独裁の下に、「反日」を愛国心の核にした「中華人民」がいるだけです。
支那は日本の様に、歴史の蓄積による国民がまだいませんし、その様な愛国心でもありません。13億の砂粒の民を共産党が「反日」で纏めあげるしかないのです。
完全な民主主義は無くても、連邦制の様なものしかないと思います。
しかも民主主義は古森氏が考えているような普遍的な価値でもありません。「民主主義」にしろ「自由主義」にしろそれが世界中に当てはまるとは限らないのです。
長々と拙文を何卒勘弁下さい。
jtakeさん、頑張ってますねえ。しかし、国内で民主主義について議論することは「中国シンパの思うつぼ」には笑ってしまいましたね。この言い回しは古森氏発なのでしょうかね。
まあ、彼は中国の民主化だの中国人の自由だ人権だのは、たぶん方便として言っているだけなんでしょうね。
中国を民主化すれば国が分裂するか崩壊すると考えているんではないでしょうか?だとすれば日本にとっては都合が良いでしょうね。
そして、そう都合良く?行ってくれる可能性も低くはないでしょう。しかし、それはコソボだとかああいう果てしない民族紛争が中国大陸を吹き荒れることを意味します。だからやっぱり本当に中国人のことを思っているなら民主主義とか軽々しく言えないはずですね。つまり政治的発言なわけです。
本当に中国人の人権とか命とかが大事と思ったら、いろんな歪みは多くても、むしろ今の体制のほうがマシかもしれませんし、たぶん中国共産党もそう考えているんでしょうね。
もうひとつ、中国が民主化したばあいに何がおこるかの可能性ですが、分裂して民族紛争から目をそらそうとして、さらに反日で国を統一しようとしてくるかもしれません。というか、中国には多数の民族がいるだけで、中国の国民というのはいない、というのはすでに変わりつつあると思います。
反日を核にして中国に国民ができつつあります。そういう国を民主化したらどうなるか。民主主義の決定によって、日本にむけられている核兵器のスイッチが押されかねない、世論によって人民解放軍を沖縄あたりになだれこませかねないと思います。民主主義は戦争の歯止めにはなりませんんからね。ジンゴイズムというのがありますし。
こんなこと、「民主主義の危険性」について少しでも考えたことのある人間ならばすぐにわかることだと思うのですが、民主主義は素晴らしいとしか思っていない古森氏には、たぶん想像もつかないのでしょうね。
そしてこういうことを言うと「中国シンパの思うつぼだ」とか言われるんでしょうね(笑)。
この「敵の思う壺」発言、初めてではないのですが、議論に深入りしたくないときの逃げ口上として使われます。それで、この点がずっと気になっているのです。その辺の無名ブロガーなら特に気にはしないのですが、ほかならぬ保守論壇の重鎮です。この程度のことを考えたことも無いというのでは済まないと思うのですよ。すると、どうしても「民主主義は日本の存在意義」だの「根本原理」だのと意図的にアジっているとしか思えないのです。彼は共和制主義者なのかなあと漠然と疑っています。
そこにリンクしてくるのが佐藤優さんが「より共和制に近い形で憲法が改正されるのを恐れる」という理由で憲法改正に慎重な発言をしておられるということです。(これが9条をありがたがる連中が佐藤さんを同志だと見ている理由ですが。)ただの妄想だといいのですが、なんだか腑に落ちません。







