右余極説
右翼ではなく余り極端でもなく説明したい(笑)
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生命尊重主義という対立軸
昨日は城内実応援サイトに応援メッセージを書かせていただいた件をアップしました。応援サイトにはいろんな考え方の人たちが集まっています。全部を詳しく読んだわけではありませんが、いろんな人が応援しているというのは重要なことだと思います。

私みたいに政治信条が近い人間が応援するのはあたりまえですが、あまり近くない人も応援しているということは、政治信条を越えた人格みたいなものがすぐれているということでもあるでしょう。

また、一般の有権者は細かい政治信条には関心が無く、むしろ人格的にまともかどうか、自分たちのために頑張ってくれそうかどうか、そういう点に関心があるわけですから、いろんな人が応援しているというのはプラスになると思います。

というか、むしろ私のようなバリバリ保守派というか右派というか、こういうタイプは一般には受けませんので、私みたいなタイプはあまり応援しないほうが良いのではないかとすら思います。

私の場合はもうひとつ爆弾があって、世論や国民を批判するという点です。世論はまだ良いのですが、国民を批判するとえらい目にあいます。

実際に批判しているのは国民(=国の歴史と伝統と義務を背負う覚悟を持つ民)にあらざる「人民」を批判しているのですが、民主主義は多数決で、多数者が主権者ですから、多数者を批判すると、多数者=正義に反するとして怒りをかうことしばしです。恐ろしい世の中です。

そういう、世間にはぜったいに受けないようなことを平気で書いてしまう私のブログが城内氏を応援して大丈夫かという意識は常に持っております。

しかし、私の性格はかなり反骨心が強くて自分でも困ることがあるのですが、もっとも強いものに逆らってしまうところがありますからどうしようもありません。

現代の日本では、そのもっとも強いものが世論であったり多数者なのですから。

ですからそういうものを批判せずにおれない性格には困っていますが、そういう多数者に決してウケないようなことを書くブログが政治家を応援してもマイナスにしかならないのではないか?と思ってしまうわけです。

それはそうと、今日の話題にもどりましょう。
小泉政権時代から、反「新自由主義」で右左のブロガーが連携しだしたりしていましたが、私がそこに加わるのは、ずっと前から、ちょっと不可能だと思っています。

どうして私が左右の連携を不可能と思うか、もっと言えば左右の連携を嫌うのか、理由はたくさんありますが、少なくとも私が左派はもちろんのこと、保守(と言われている人たち)の一部ともあわないと思うか、という理由があることに最近気づきました。

これもまた、私が圧倒的な少数派の側になってしまう考え方であります。

これは喜八さんのブログの割と最近のエントリーを読んでいた気づいたことです。

喜八さんのように左派と連携できる人や左派の人たち、そして、ホリエモンとか新自由主義者にも共通の考え方とも言えると思うのですが、いや、もしかしたら今の日本人の90%以上の人たちが考えていることだと思うのですが、「生命尊重主義」という考え方があります。

「生命尊重主義」つまり、私に言わせれば「命あってのものだね」思想かどうかという対立軸があることに気づきました。

私ももちろん、人の命は出来る限り尊重されるべきものと思っていますが、ただ生きながらえる事が最高の価値とは思っていないところがあります。

この考え方が、戦後の日本で私を少数者にしている最大の理由、世間や世論に対して疎外感を強く感じさせている最大の理由だと思います。

しかし、考えてみれば、時代のスパンを長くとってみると、戦後の日本人のように、人々が長く生きることを強く望みたいと思う時代というのは、むしろ例外でしょう。

今の日本のように、長く生きていれば楽しいことにたくさんであえる可能性が高い、そのチャンスがそこらじゅうにある、娯楽も快楽も安い金で手に入る、そんな豊かな世の中というのは、歴史をさかのぼると、たぶんほとんど無かったのではないでしょうか?

人類の歴史上、圧倒的に長い時代、生きることは苦しみそのものだったはずです。

そもそも、本当の仏教(日本の仏教はある意味ニセモノ)では、「解脱」することが目的でした。解脱とは現世の苦悩から開放されることです。

仏教では人は輪廻転生すると捉えられています。そして、仏教が起こった時代というのは、生きることが即ち苦しみであるような時代でした。

生きることが苦しみである時代に輪廻転生という思想が加われば、すなわち人は「生きる苦しみが永遠に続く」世界に存在している、ということになります。

したがって、修行して悟りをひらいて解脱する必要があったわけです。

ところが、現代の日本では、ホリエモンが目ざしていたように、科学技術の力で不老不死を望むような人間まで出ているというわけです。

私とて、死にたくありません。とくに、病気や事故で死ぬのはまっぴらごめんです。三島由紀夫ですら、病気で死ぬのは怖いと言っています。You tubeで三島由紀夫の動画を探せば、そういうことをしゃべっている映像があったはずです。

しかし同時に、ただ生きながらえるのが良い生き方だとも思えません。何度も書いていますが、命は手段です。この手段を使って何ができるか、どう生きるか、そして危機的状況にあってはどう死ぬかということが大事になってくるのだと思います。

金も手段です。私がホリエモンの考え方を理解できないのは、彼は手段にすぎない金や命を目的にしているという点です。もちろん、手段が圧倒的に不足している状況においては、手段の確保が目的になりうるものですが、彼の場合はひたすら手段ばかりを追求しているというふうに私には見えました。まあ、金をたくさん稼いだから長生きしたいと思っただけの話かもしれませんが。

というか、逆に考えると、人々に苦しみを与えているのは自らの欲望(煩悩)なわけですから、現代においても人生は苦しいことにかわりない、さまざまな豊かさによって、常に煩悩を刺激され、己の欲望を満たすことばかり考えて生きなければならないと考えると、現代の日本人は豊かさの奴隷になりさがったと言えなくも無いでしょう。

それにうっすら気づいている私のような人間は、生き長らえること以外に、それ以上の価値を見いだそうとしてしまうのです。

生きる苦しみから逃れるために宗教に助けを求めるというのも何か違うような気がします。ですから、場合によっては命をかけて行動する価値のある何かが存在するのではないか、と考えたくてしょうがないのです。実際には具体的に何もしていませんで、あくまで思索上だけの話ですが・・・

戦争を嫌う左翼はたぶん人が死ぬからイヤなのでしょう。そして、これは批判のつもりはありませんが喜八さんが革命を嫌うのも、人が死ぬからだと最近のブログで書かれていました。

もちろん、20世紀においては、ちゃんとした統計は忘れましたが、戦争よりも共産主義という革命のほうが人をたくさん殺しているので、人が死ぬのがいやなので革命が嫌いというのは、これはなかなか良い視点だと思います。

しかし、人間はだまっていても死にます。若い人間だって病気や事故で死にます。もちろん、そういう死、避けられない死や自然な死は別なのでしょう。

しかし、近代文明も大量の人を殺しています。たとえば、日本だけに限っても交通事故死は毎年約1万人でした(最近は徐々に減ってもうちょっと少なかったと思いますが)。

ということは、戦後の日本だけに限っても交通事故で亡くなった人というのは、ちゃんと数字の統計を調べてはいませんが、数十万人はいるということです。これってちょっとした数だと思いませんか?革命や戦争に匹敵するような数だと思います。

人が死ぬことがイヤと言うなら近代文明そのものを疑わねばならない面もあるはずです。もちろん、逆に多くの人間の命も救っていたり人口を爆発的に増加させたりもしているわけなので、難しいところですが、人口が永遠に増え続けるのでなければ、いずれ死ぬ人のほうが多くなるのは間違いありません。

ただ、戦争や革命で人が死ぬ場合と、事故や病気や災害などで死ぬ場合とでは、大きな違いがあります。もちろんすべてではありませんが、事故や病気で死にたいと思う人はまずいないでしょうが、戦争や革命においては、自ら進んで命を投げ出す人もいるということです。

「大義」のために死ぬことが、その場で生きながらえることよりも優先すると考える人もいる(いた)、そしてそれは自分の命を最大限輝かせる生き方・死に方になりうるということです。

そういうことが、おそらく戦後の日本に生きているとわからないのだと思います。だから戦争で亡くなった人はみんなかわいそうな「犠牲者」だとしか思えないのでしょう。

しかし、戦後の日本のように、誰もが長く生きたいと、長く生きていれば楽しいことが多いような社会や時代というのは、むしろ人類の歴史上、かなり例外的なのだということです。

そして、生命尊重主義というのは、あくまで時代と添い寝する思想にすぎないのだと思うわけです。保守思想というのを考えると、時代のスパンを長く取ってものを見てしまうくせがついてきます。だからなおさらそう感じてしまうのかもしれません。ある意味、私は頭でっかちなのかもしれません。

いずれにせよ、命を何より大事にするか、大義のために死ねるかどうかという価値観というのは、その人(の集団)が育った時代や社会の状況によってかなり決まってくるような気もしますが、いずれにしろ、今の日本社会がかなり豊かであり、生きていればかなり高い確率でその物質的豊かさの恩恵にあずかれる社会であることはよく認識すべきと思います。

ですから、社会を豊かにすればするほど、革命も戦争もおこらないのは確かでしょう。世界中の国がすべて豊かになれば、どこの国も戦争をしないのかもしれません。しかし、そんなことは不可能です。

また、我々が豊かになればなるほど、かつての人たちの考え方との解離が大きくなります。生きながらえることよりも、国を守るために命を投げ出した英霊たちを、かわいそうな戦争の犠牲者だとか、間違った戦争で死んだ哀れな人たちというような理解のしかたしか出来なくなってしまいます。

こういう現代日本人の思考には私はとても傲慢なものを感じます。

また、上にも書きましたが、常に物質的な欲望を刺激されつづけ、生きることが欲望の追求になりさがってしまいがちです。それは、物質文明の奴隷のような生き方ではないかと、ふと思うことがあります。

もちろん、ちょっと考えてみれば、安全と生存だけがすべてではないと考える人も現代の日本社会にはいるのです。自衛官や警察官、海上保安庁の職員、消防レスキュー隊員など、彼らは場合によっては自分の命や家族よりも、他人を助けることを優先させなければならない状況に出会う可能性があります。

我々の平和で安定した生活は、我々の生命と安全は、この豊かな社会にあっても、彼らのような人たち、自分の命を危険にさらしても同胞の命を守ることに価値を見いだしてくれている人たちの努力で成り立っているものです。

ただ、死にたくないとか生きながらえることがすべてというようなものの言い方では、安全と生存すら守れない社会に逆戻りさせてしまうでしょう。

誰もが死にたくは無いし、そう簡単に死を選ぶ必要などまったくない。しかし、状況によっては、「けれども」を考えなければならないこともあるのではないかと私は思います。

考えてみれば、政治家だってまじめにやれば、自分や自分の家族の安全や生存にとっては、おそらくマイナスにしかならないでしょう。

自分を犠牲にして国民のために尽くしてくれるような政治家ばかりを我々は求め、国民は政府に要求ばかりしていますが、小泉構造改革の背景にある自己責任論というのは、その反動としてあらわれてきたものだと思います。

もちろん、自分が生きるので精一杯の人たちが自分以外のために何かしろなどとは言いませんが、いまだに多くの日本国民が、それなりに豊かな生活をしている、中にはヒルズ族のような奴らも居るというのに、彼らが自分以外の「公共」ということを一切考えなくなったために、自己責任論の弊害がさらに増大しているのだと思います。

やるべきことは、失われた公共精神を国民が取り戻すことではないでしょうか?格差や医療や年金もろもろの問題の解決には、公共精神の回復が不可欠だと思います。

生命尊重主義だけでなく、他者のために自分を少しも犠牲にしたくないと考える人間ばかりになっているのです。

公共のために、命まで捧げよなどとは言っているのではありません。余裕のある人間がその余裕に応じて、公共のために自分を多少なりとも犠牲にする部分、力をそそぐ部分が失われてしまえば、世の中は弱肉強食の動物の社会へと堕ちてしまうのです。

そういう利己主義が跋扈する背景には、ともかく自分の豊かさばかりを追求するために自分の命ばかりを大事にする、という意味での生命尊重「主義」があるのではないでしょうか?

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コメント
この記事へのコメント
命より大事なものがある、これにつきる

以前からあの手の根幹にあるのはなにかとかんがえてきましたが、日村さんのいわれる生命尊重主義であるとおもいいたりました。
連中は個人主義であり、生命尊重主義ともろくかさなりあいます

スパンをながくみる、すなわちひろい視野でものをながめるのはそのとおりですが
頭でっかちではなく、もっと根源的な本能にちかいものでしょう

長生きしたい人は、楽しいことにたくさんであえるからではなく単に死ぬのがこわいだけでは?
自分という、連中にとっては物質的な存在がきえてしまう(とおもわれる)死は、なにがなんでも忌避すべしなのでしょう

どうみても戦後の圧倒的な少数派、おなじかんがえをもつものとして、切なくなります。。。。。


ハンディ12 | URL | 2008/05/13 (火) 22:26:48 [編集]
旧日本軍の特攻に恐怖する米兵の数々の逸話を読んでいて、当初彼らがそこまで恐怖する理由が私には腑に落ちませんでした。戦場は死が当たり前の場所であるはずなのに、死の現実を前にして彼らはどうしてそれほど死を恐れるのか?それは現代のイラク駐留軍でも同じです。

そこで私が考えた仮説は、大事を為す手段として、アメリカ人が「死」「死ぬこと」を選択肢から最初から排除している一方で、日本人は「死」も選択肢の一つと考えているのではないか、ということです。

日本人とて死ぬのはいやだが、それでも大事を為すために一命を賭す事も厭わない。だから特攻のような手段も取りうる。しかしアメリカ人には「死」は選択肢には入ってないので、日本人の行動をクレージーだと思ってしまう。

結果的に「死」を選ばなかったとしても、「死」を選択肢の一つに持っておいて選ばないのと、最初から選択肢に含めないのとでは覚悟の差があると思うのです。そこが日本人とアメリカ人の差なのかな、と。

更に言えば、「死」を選択肢を含めるということは、たとえ自分という存在が無くなっても奉仕すべき存在がある、ということ。最も守るべき自分すらも超越する存在―――それこそが「公共」、当時の言い方では「お国」ということになるでしょう。恐らく戦前の日本はこのような考え方が今より強かったのでしょう。

それが戦後もたらされたアメリカ式価値観により、「死」を選択肢から排除するようになった。「死」が選択肢から排除されると、「死」に現実感を持たず、「死」を忌避し、自分の「死」を賭す事などしなくなる。かくて公共精神は失われた、と。

「葉隠」の有名な一節の真意もここにあるのかな、とも思ったり。
かせっち | URL | 2008/05/13 (火) 22:29:59 [編集]
訂正です
上の文中

「生命尊重主義ともろくかさなりあいます 」

は、

「生命尊重主義ともろかさなりあいます 」

です~
ハンディ12 | URL | 2008/05/13 (火) 22:30:03 [編集]
>ハンディー12さん

私とて今何かのために命を投げ出せるかと言われると、具体的な状況がないのでほとんど自信がありません。結局は個人主義の延長として、どこまでも自分というものにこだわる、それが生命尊重主義かもしれないと思います。


>かせっちさん
そうですねー、戦後は公共というものが、別に命をなげださなくても、もっと低い小さいレベルでも失われている気がします。そこらへん、ちょっと行き過ぎかなあと思っており、その延長に、どこまでも生きて快楽を追求したいという考えがはびこっているのかと思います。

もちろん、最近はそんなことも考えられない若者の貧困層も増大しているようですから、また時代も変わってゆくかもしれませんが・・・
管理人 | URL | 2008/05/14 (水) 18:57:58 [編集]
私は命をも投げ出せる、そのような大義や守るべきものを得ていく過程もまた生命だと考えています。大義のために死をも惜しまないというのは強烈な生の発露ではないでしょうか。そういう意味も含めて私は生命至上主義者なのかな、と思っています。
| URL | 2008/05/14 (水) 23:53:43 [編集]
>耕さん
それこそ、本当の意味で生命を尊重していることになると思います。それが本当の「生命」「尊重」主義でしょうね。
管理人 | URL | 2008/05/15 (木) 08:47:45 [編集]
生命尊重は精神喪失

生命尊重と拝金主義なる戦後的価値観が、日本人の美意識・価値観を粉砕していき、今も音を立てて崩壊しています。
沖縄反戦運動で「命どぅ宝(命こそ宝)」というスローガンを掲げております。「命どぅ宝」の視点から見た所謂「集団自決」は狂気の沙汰にしか見えないようです。当時の沖縄県民は日本人として戦い、日本人として潔く美しい生き様を選んだことを彼らには到底理解できないようです。
四半世紀も事ある毎に「命は大切だ」と繰り返していましたが、その割には凶悪犯罪が多発し、凄惨な事件が次々に起きて、自殺者は毎年約3万人ぐらいいますし、硫化水素による自殺も後絶ちません。妊娠中絶も年に約30万件起こっており、これはホロコーストと言うくらいです。
日本ほど平和や人権とか、「命は尊い」と声高に叫びながら、実際の安全から遠ざかっています。日村さんの仰るとおり、安全保障は生命の犠牲無しには成り立たないのです。カネで自由や平和は買えません。自衛隊員や警察官・消防士、レスキュー隊員等の方達がいなければ、国内の秩序は崩壊し、外国の侵略にあってしまいます。
そして政治家とて生命を犠牲にする覚悟が無いと出来ません。大隈重信が、玄洋社の来島恒喜に爆弾を投げられ片足を失っても、「若者はこれぐらいでなくちゃいけない。」と言ったそうです。
ただ、現在の日本人に生命を超えた価値に殉じる覚悟があるか?また、その生命を超えた価値を見いだせるかが心配です。

渡世仁義の風来坊 | URL | 2008/05/15 (木) 15:50:37 [編集]
>私の場合はもうひとつ爆弾があって、世論や国民を批判するという点です。
>世論はまだ良いのですが、国民を批判するとえらい目にあいます。

政治家が国民批判をするとえらい目にあいますが知識人はいつも国民批判ばかりしてるような。
どのような問題が起こっても、日本人はどうしてこんなふうになってしまったのかとか。
そのせいで責任の所在がいつもあいまいになってしまっているような。
もっとピンポイントで批判してほしいなと思ったりします。
ドド | URL | 2008/05/17 (土) 17:58:42 [編集]
日村さん、おはようございます。
今回の記事は人間や宗教哲学にとっての究極ともいえるテーマですね。
こういう皆が口に出すのが憚られる議題は日村さんらしくて良いと思います(笑)
「生命尊重主義」という概念は生を受けた人間の想いとして当然の思想だと思うのですが、一部の平和絶対主義者のような、なにものにも勝る真理や絶対の価値として主張する姿には私も違和感を感じます。
生は一時の現象であり、死もやがてくる現象なのだから、生理的に生きているということだけを目的にしたような「生命尊重主義」になんの意味があるのかな?などとも思います。
きつ | URL | 2008/05/20 (火) 11:48:55 [編集]
>渡世仁義の風来坊さん
>ドドさん
>きつさん

コメントありがとうございます。まとめレスですみません。

この話題は、特に私が興味あるテーマでして、しかし、世の中見渡してみても、共感できることを言ってくれる人はほとんどいません。

ブログでコメントくださるごく少数の方々のみですね。寂しい話ですが。
管理人 | URL | 2008/05/22 (木) 17:20:43 [編集]
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