右余極説
右翼ではなく余り極端でもなく説明したい(笑)
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「チベット問題」ではなく「チベットの問題」
昨日のエントリー「チベット問題で大切なこと」のコメント欄でmukkeさんという方から、大変有意義なご指摘をいただきましたこちら。感謝です。

実は、耕さんからいただいた二つ目のトラックバック先の文章「チベット問題を理解する上で何が必要なのか」を読ませていただきて気づいたことなのですが、私はチベットもダライ・ラマもチベット仏教も、どれも、あまり好きではない、共感できないという点です。なので、この問題については書くべきではありませんでした。

結局は私も、中国を攻撃する手段としてチベット問題を持ち出してきたにすぎないということです。

もちろんチベット人からすれば、別にチベット仏教に共感してもらう必要もなく、今は何でも良いから中国を非難して欲しいのかもしれませんが。
mukkeさんのコメントでは、コソボの話が出ましたが、もともとチベットにチベット人だけが住んでいる状態、というかチベットが独立国であるならば、コソボみたいにはならないわけです。それが、今や漢民族が侵略してきて共存して差別があるから、ああなったのでしょう。ですから、独立を守ってこれなかったせいなのです。

中国のような理不尽な国の侵略も国際社会はアテにならない、自分たちで守らねばならないということです。日本はせいぜい教訓にすべきと思います。我々にとって大事なのは、そのことだけなのかもしれません。

もちろん、中国の覇権主義や侵略的性質を諫めるためにチベット問題については徹底的に抗議すべきですが、それもチベット人のためというより、我々自身のため、あらたに中国の被害にあう国を出さないため、ということなので、あまり「チベット人のためだ」などと言うのは偽善的すぎるように感じます。というか少なくとも私は「チベット人のため」というスタンスだけではモノは言えないなと思いましたし、その必要も無いと思います。

従って、「人権」だの「自由」だの自分たちの概念を掲げる欧米人の傲慢さを批判しましたが、「日本の国益のことを考えてチベット問題について発言する」という私の今後のスタンスも、決して立派なものではないと言えます。ただ、欧米人と違って偽善的ではない、という程度の差はあるとは思いますが。


そもそも、チベット仏教も非暴力の思想も、それを守るのは一体なんでしょうか?
「チベットに自らの宗教を守り伝える自由」を保障し担保してくれるものは一体なんですか!?

世界中にチベット人しかいないなら、チベット人の信仰心の強さが唯一の問題でしょうが、そんな世の中はあり得ません。宗教というのはその教義はどこかそういう設定なのです。

実際にチベットおよびチベット的なるものを物理的に守ってくれるものとは何か、それは暴力装置です。皮肉なことですが、非暴力を守るためには、暴力が必要だということです。

私はチベット仏教の中身などろくに知りませんが、ただ非暴力と言っているだけでは、結局今のようになってしまうのです。

仏教の「非暴力」を集団のアイデンティティーの核にすることは矛盾をはらんでいます。外敵に対してはそれが適応されないようなダブルスタンダードが必要でしょうね。そこらへん、あまりに純粋なイデオロギーは滅びるという典型例かもしれません。

また、敵などいないというのならば、漢民族による遺伝子侵略(むりやり結婚させられて混血されている)を甘んじて受けるしかありません。それを排除する理由は無くなってしまいます。

それから、人民解放軍による暴力をやめさせる力とは何でしょうか?世界からの圧力ということもあるかと思いますが、中国共産党が、国際世論みたいなものにある程度配慮して一時的にごまかすようなことをしても、時間がたてばまた後戻りでしょう。中国共産党が崩壊しれくれるのを待つしか無いでしょう。自分たちが滅びるのが先か、共産党が滅びるのが先かです。

また、私は「同胞」や「自分たちの大切な文化」が危機にさらされた時に、それを命がけで守ろうとしない者は大嫌いです。ましてや逃げるなどもってのほかです。結局海外で声を発しているチベット人はみんな逃げているん人たちですよね。

日本も中国に侵略されたら、ああやってみんな海外に逃げるんでしょう。国内に残って戦ったものは負けて虐殺されるのかもしれません。

ともかく私の思想はチベット仏教と私は相容れないのです。もちろん、相容れないから自分好みにチベットを変えようなどと私は思いませんので、結論としては、できるのは、放っておくか、せいぜい中国の人権侵害を、中国タタキの材料として利用するか、ということくらいでしょうか。

チベット人の権利もチベット人の自由も、基本はチベット人の手でしか守れないものです。それが根本的に脅かされているというのならば、命がけでも守るべきでしょう。しかし、そういう思想がそもそも無いというのなら、もう私は知りませんし、彼らから学ぶことは無いと思います。

もちろん、あまりにも非道なことをする中国共産党を批判するのは我々の義務です。しかし、チベットを守る主体はあくまでチベット人です。彼らに戦う気がない、戦うなどそもそも自分たちのアイデンティティーに反する、戦わないことが「何よりも」大事だと言うなら、我々が代わりに戦うこともできませんしそんなの馬鹿らしい、もう放っておくか、せいぜい自国の利益に反しない程度のレベルで中国を非難するくらいしかできないでしょう。

自分たちの大事なものを守るために命もかけようとしない人たちに、私は自分の労力を少しでも割きたいとは思えません。

でも、誰もがあたりまえのように簡単に決めつけて言っていますが、チベット人の一番大切なものは本当に「非暴力」なんですか!?チベット仏教において大事な教えというのは「非暴力」ただ一つなのか、それが唯一かつ最大の教えなんですか?「非暴力」は他の何よりも優先するのですか?それは本当ですか!?

mukkesさんが教えてくださったことですが

ダライ・ラマ猊下の主張される「非暴力」というのは、決して綺麗事ではなく、暴力で闘ってしまったら、たとえ政治的自由を確保できてもチベット民族の魂の奥底に癒しがたい傷跡を残す事になる、という事ではないのでしょうか。

私にはやっぱりこれは綺麗事にしか聞こえません。人を殺すより殺されるほうが良いというのなら、もう放っておくしかありません。

誰だって暴力をふるったりふるわれたりというのは、魂にそれなりの傷跡を残します。しかし、同胞が拷問され殺されているのをまのあたりにしても、それでも非暴力を貫くほうが大事なのでしょうか!?戦わずに国外に逃げるのが正しいのでしょうか?

だとしたら、そんな「非暴力」の思想など、とてつもない卑劣者の考えだと私は思います。

私は「状況」というのを無視した思想はイデオロギーにすぎないと思います。そういうものを後生大事に守るのは理解できないところがあります。理解できないものに対する良識ある唯一の態度は、関与しない、放っておくということです。それが私の結論です。

チベット人がどんな状況でも杓子定規に「非暴力」を貫くと言うなら、私はもうチベット問題に関してはチベット人のための発言は一切せずに、日本の国益だけ考えた政治的発言としてチベット問題を利用するくらいでしかチベットについて発言しようとは思えません。

それが私の何より嫌いな「偽善」を排するための唯一取りうる態度ということです。他国の問題を自分たちの国益に利用するのは、ある種、卑怯かことかもしれませんが、中国に配慮して黙っているよりは、はるかにマシではないかと思います。

ともかく、日本はチベットみたいにならないようにしましょう。日本が危機の時には、戦ってでも、命がけでも国を守って行きましょう。そのためには、新憲法を早急に制定し、大事な日本という国の国民および国柄を、いざとなったら戦ってでも守るのだという気概をそこに盛り込む必要があると思います。

これが、チベット問題から日本人が学ぶべき最大の点であると私には思えます。

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コメント
この記事へのコメント
チベットのようになってしまっては手遅れであるということには同意しますが、いまなお、チベットには中国の抑圧に反抗して必死にもがいている人たちがいます。この中にはダライ・ラマ法王は甘いといっている人たちもいるらしいではないですか。今回の蜂起は絶望的だけどまだ、火が消えたわけではないことの証明だと思います。だから、私は残って戦っている人たちに重きをおきたいと思います。

日村さんはあまり好きではないかもしれませんが、よーめんのブログさんのところにリンクされていたものに酒井信彦先生という方の講演の動画があります。そのなかで、酒井先生が、「こうなってしまったのはダライ・ラマ法王に大きな責任があります。」と、非暴力路線を批判しておられました。つまり、法王が欧米におもねって彼らに祭り上げられてしまった、挙句の果てにノーベル賞までもらってしまったことが問題だということです。これには「なるほど」と思いました。そしてもっと考えると、欧米の支援と引き換えに武器を捨ててしまった事以上に、そもそも指導者が亡命してしまったことが大きな問題なのかもしれません。その点で、先帝陛下のありがたみを噛締めるべき、というのは言いすぎでしょうか?

それから、チベットの問題は人権という奇麗事だけではなくて、現実的に日本の国防の観点からもう少し真剣に検討されてもいいと思います。中国の脅威は台湾問題という形でもうすでに手遅れなくらい間近に迫っていると思います。アメリカはすでに中国とガチで戦うだけの利害も覚悟もないわけで、覇権と引き換えに妥協する事だって十分にありえます。中国は経済という「人質」がなければいつ攻め込んでもおかしくないわけです。その経済もかなりゆがんだ成長をしているわけで、一歩間違って成長の車輪が止まってしまった日にはどうなるかわかりません。ということで、チベットや東トルキスタンは中国を切り崩す突破口になりうると思うのですが。

奇麗事ばかり言って国を守ることを忘れてしまったのが戦後日本の病気ですから、目を覚ますにはこのくらいのことはちょうどいいじゃないでしょうか?
jtake | URL | 2008/04/11 (金) 13:20:48 [編集]
チベットの非暴力路線は宗教的動機によるものです。その辺は私もこのまえ送らせていただいた記事に書いたつもりです。
それを踏まえると欧米諸国もキリストの「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という言葉にならって少しくらいは非暴力を貫いてほしいものなのですが(苦笑)、そうはいかないようです。

やはり私はチベットは今の運動のままでよいと思います。
政府を守ることだけが国を守ることではないと思います。
国を守るのは軍事力だけとは限らないですよ。
私は、そういう考えです。
| URL | 2008/04/11 (金) 20:55:05 [編集]
丁寧な返信を有り難うございます。

本来なら私もエントリを立てて返すべきなのでしょうが、こちらで話させて頂きます。

取り敢えず、ダライ・ラマ猊下のチベット人への呼びかけです。共感するしないはともかく、猊下の立場を知る為にできればご一読頂きたく思います。
http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/message/080406_statement_to_all_tibetans.html

>「日本の国益のことを考えてチベット問題について発言する」
>相容れないから自分好みにチベットを変えようなどと私は思いませんので、結論としては、できるのは、放っておくか、せいぜい中国の人権侵害を、中国タタキの材料として利用するか、ということくらいでしょうか
そのようなスタンスはあっていいと思います。私はなるべくチベットの立場に立ちたいと願っていますが、批判者の全てがそうである必要もない訳ですから。

私が言いたかったのは、「真にチベット人の事を考えるのならば、安易に『非暴力を捨てろ』なんて言うな」という事だったのですが、チベットではなく日本の国益に立脚してのご意見ならば理解します。

>結局海外で声を発しているチベット人はみんな逃げているん人たちですよね
この認識はどうでしょうか。少なくともダライ・ラマ猊下がインドに亡命したのは、チベット文化を守り抜く為の「拠点」を保持する為であり、中国当局に「ダライ・ラマ」を渡さない為であり、また自分を守る為に死ぬ覚悟を決めているチベット人たちの命を救う為でした。

私は、当事者であるチベット人が「武器を取ろう」と考えるのなら、それも仕方ないと思うのです。いくらダライ・ラマ猊下が「非暴力」を貫こうとしても、実際に国土を蹂躙され、肉親を失った人がそれに反撥するのは私には責められません。

けれど、「非暴力を捨てよ」と、チベットの未来に責任を持っている訳でも、同じような辛酸を舐めた訳でもない我々が働きかける事は、何かが間違っていると思うのです(これは無論、「チベットの立場」に立ってこの問題を語る場合の話であって、「日本の国益を擁護する立場」に立たれるのであれば別ですが)。

日村さんが、
>敬虔な仏教徒としてのチベット人の権利と自由(というかその生き方)が守られなければならないのです
と前のエントリで仰っていたので、それならば簡単に武器を取れなんて言うべきではない、と思い、書き込みをした次第ですが、これは今の貴方の意見ではない、という事でよろしいのでしょうか。

別の観点。

所詮チベット人の数なんてたかが知れている。武器を持って闘っても中国の圧倒的な武力を跳ね返して独立(もしくは自治)を獲得できるとは限らない。しかもその場合、チェチェンやダルフールや旧ユーゴ(ボスニア、クロアチア、コソヴォ、マケドニアなど)……といった世界中の紛争と同列に並ぶ事になり、いずれ人々から忘れ去られるかもしれない。

けれど非暴力で対抗している限り、少なくとも人権にうるさい欧米はチベットに熱烈な支持を与えてくれ、中国に圧力をかけ続けてくれる。中国がこれで揺らぐ可能性は低いが、まだこちらの方が成功する可能性が高い。しかも宗教的アイデンティティを傷つけずに済む。

……という考え方はいかがでしょうか?(いや、前者の方が可能性が高い、という場合もあるでしょうが)
mukke | URL | 2008/04/11 (金) 21:28:29 [編集]
私もチベット仏教のことはほとんど知りませんが、「チベット人(ダライラマ14世)にとっては、チベット仏教の方が大切か、チベット民族の方が大切か?」と聞いてみたい気がします。
二者択一は出来ないというのでしょうが、中国共産党による支配は、チベット仏教の亜流を残してチベット民族の少数民族化(漢民族への同化)を要求しているように思えますので、これを甘受できるか否かという問題を、チベット人が、どのように解決したいかという彼ら自身の問題が第一です。
民す党 | URL | 2008/04/11 (金) 21:57:10 [編集]
>jtake さん

力のこもったコメントありがとうございます。酒井信彦氏のお名前は初耳ですが、私の考え方に近い感じですね。テレビで英語をペラペラしゃべっているダライ氏を見ると、何か違和感を感じました。偏見かもしれませんが。

少なくともチベット人のためかどうかは分かりませんが、日本を含む周辺諸国や民族のためにも、中国の暴走を許してはならないと思いますね。ところが、日本政府は・・・



>耕さん

私がもう一つ疑問なのは、すべてのチベット人は非暴力を貫く覚悟が本当にあるのでしょうか?宗教とともに殺されてもかまわないという覚悟があるのでしょうか?ガンジーのように。

私は実はガンジー主義はかなり好きなのですが(これはむしろ特攻に近い)、ごく普通の人たちにまで、そんな覚悟があるんでしょうか?そういう非暴力を貫く覚悟のある人しかチベット人でいられないのか、ということもあると思います。

少なくとも私なら女子供(のような弱者)にはそんなことさせたくない、男(のような強いもの)が戦う覚悟で守ってやらねばならないと思うのではないでしょうか?

>政府を守ることだけが国を守ることではないと思います。

ここがちょっとわからないのですが、私は政府を守ることが大事とはどこでも言っていません。簡単に亡命するチベット政府など、むしろ軽視していました(mukkeさんのコメントを読んでちょっと変わりましたが)。

>国を守るのは軍事力だけとは限らないですよ。

これもわかりません。私は「国を守るのは軍事力だけ」などとは一度も思ったことはありませんし、今回そういうことを書いたつもりもありませんので。

というのも、私は以前に、国家を存続させる3つの要素という文章を書きました。その一つが「軍事力」ですが、あとの二つも絶対必要な力で、3つどれが欠けても近代国家として存続不可能という考えです。軍事力「だけ」あれば良いなどとは思っていません。が、軍事力無しでは守れない、とは言っています。

他の二つは「価値の力」と「経済の力」ですが、一番大事なのは「価値の力」で、これは国家存続の目的の次元の力です。

あとの二つの力は手段の部類に属するものですが、手段がまったく無しに目的を達することはできないのは明らかだと思います。今のチベットには、「価値の力」すなわち「目的」はありますが、それを守る「手段」がありません。つまりこのままでは、チベットは近代国家としては存続できない。

そして、私は近代国家というのは、およそ乗り越え不可能なものだと思っています。民族問題もグローバリズムの問題も、その解決には国家という枠組みが重要であり、有る程度人工的な概念である「ナショナリズム」を再構成するしか無いというのが私の考えです。いずれこのへんのことについては詳しく書いてみたいですが。

ただ、今思いついたのですが、非暴力というのをガンジー主義のように貫き積極的にそれを「攻撃」に使うというなら話は別です。

無抵抗で暴力に立ち向かう、死を覚悟した非暴力特攻みたいのをして中国共産党にバタバタ殺されて行く覚悟があってそれを実行できて、その様子が全世界に映像配信でもできれば、それは軍事力並の力にはなることだろうとは思います。



>mukkeさん
いえいえ、エントリーをわざわざ立てて頂かなくて結構ですよ。

私のスタンスは、まだはっきりできませんね。mukkeさんのこのコメントを読んでみて、やはりいろんな視点があるんだなあと再度思いました。

自国の国益「のみ」を考えてチベット問題に対して発言するというのは、あまりしたくないことです。できればチベットの人たちのためにもなるようなことに、少しでも日本は協力できればとは思いますが、しかし、一体何がチベット人の望みなのか・・・

少なくとも、日本のスタンスとしては、中国共産党に文句を言うしか無いでしょうね。チベット侵略をやめろと。でもやめないでしょう。そうなれば、いずれ忘れられる、というシミュレーション通りになるかと思います。

そこで、ガンジー主義のような、耕さんへのレスの最後で書いたような非暴力の特攻のようなことをチベット人がやりまくって、バタバタと抗議の死みたいなことまでできると言うなら、滅びかけても活路はあるのかもしれませんが、そんな覚悟が多くのチベット人に本当にあるんでしょうか?そういう覚悟ある人しかチベット人と言えないのでしょうか?

安易に非暴力を捨てろと言うなとのことですが、安易に非暴力特攻みたいのを奨励もできないでしょう。でも、どっちかしか無いんじゃないですか?暴力かガンジー主義か。

大事な価値を守るために殺されるのも厭わないというのなら立派ですので、そう言われたら私はもう何も言うことありません。でも、本当にチベット人の価値観がそれで間違い無いんでしょうね?そこが疑問でもあります。決めつけて大丈夫なのかと。

あと、私の書いた「結局海外で声を発しているチベット人はみんな逃げているん人たちですよね 」という部分については、私は認識が間違っていたようで、ちょっと改めたいと思います。

また、私もチベット人に「武器を取って戦え」というのはやめようと思います。それは余計なお世話ということですね。戦うことに切り替えるか非暴力を貫くかは、チベット人が判断することで。確かに。

でも、両方混在する場合はどうしましょうかね?私は武器を取って戦うと決めた人たちを応援したいです。でも、そうすると、チベット人のチベット人たる部分を将来的に失わせてしまうかもしれないということですね。なら、やっぱり放っておく、中国を牽制することが唯一できることですね。

「敬虔な仏教徒としてのチベット人の権利と自由(というかその生き方)が守られなければならないのです 」とはまだ思っていますが、守る手段がありませんよと言いたいだけです。mukkeさんの「別の観点」の後半部分が唯一の可能性でしょうが、結局は運任せ、他国任せという感じがします。難しいですね。

やはり中国の残虐さと非道を批判するだけにしておきましょう。それすらできない日本政府はだめですね。



>民す党 さん

私も亡命政府と、一応は政府を名乗るからには、国民を守る義務があると思いますが、その能力も梨に何がしたいのかイマイチわからないんですよね。アイデンティティーそのものに自分たちを滅ぼす要素が含まれているような気がします。

mukkeさんが最後に書かれているようなラッキーなことがありでもしない限りは、このままでは滅びるのは間違いないと思います。
管理人 | URL | 2008/04/11 (金) 22:46:58 [編集]
普通のチベット人の目指すもの?
かれらの目指すところは何でしょうかね?

マッコイさんの視点はかなり正確だと感じます。

かつて、ガンジー廟を訪れた時、極めて重い意識をかんじました。
ここでは、献花はそぐわない、もっと重いもの、と思って賽銭を置いてくることにしました。
そして、当時の私の小遣いを超える額を置いてきた記憶が今の励みになっている気がします。

一般のチベット人は・・・ やはり、重いですね、もちろん彼らが決めることではありますが、単純な喜捨と考えるには同胞の命はあまりにも惜しく、やはり武力に頼るのが良いと思われます。
One of Three | URL | 2008/04/12 (土) 01:45:35 [編集]
One of Threeさん、お久しぶりです。コメントありがとうございます。

いずれにしろ、我々の価値観を安易に彼らに投射しようとするのは良くないということを、耕さんやmukkeさんなどにお教えいただいて、それはその通りと思うのですが、実際どうなのか・どうしたら良いのか、考えるほど難しいですね。
管理人 | URL | 2008/04/12 (土) 09:00:36 [編集]
それは申し訳ございませんでした。
文化・宗教で生き残ることもできるという意味で書いたのでした。

チベットが本当にそうやって立ち向かえるのかはわかりません。ただ、チベットは現代では珍しいほど宗教的土壌の強い地域であることは確かです。
| URL | 2008/04/12 (土) 19:00:39 [編集]
毎回、丁寧なコメントを本当に有り難うございます。

>非暴力の特攻
それは極論では? 流石にそのような事をしようと思うチベット人は滅多にいないでしょうし、ダライ・ラマ猊下もそれを許さないでしょう。

>そういう覚悟ある人しかチベット人と言えないのでしょうか?
しかし、チベット仏教の教えに決定的に背いてしまったら、その人は「チベット人」でいられるのでしょうか?

……「民族」の定義には様々な形態があります。ボスニアでは宗教的帰属で民族が決まったように、チベットにおいても、仏教を無視してしまったら「民族」のアイデンティティに重大な危機を及ぼすのではないでしょうか。仏教の教え、ダライ・ラマの教えに背いてしまったら、彼らは「チベット人」ではなく、単なる「チベットの住民」になってしまうのではないかと危惧します。

勿論前にも言った通り、チベット人があまりにも酷い弾圧への反感から、非暴力を捨ててしまうというのは仕方ないです。けれど、繰り返しになってしまいますが、アイデンティティという重要な問題に関わってくる事柄なので、その選択はチベットの自由意思に委ねられるべきだと思います。

>両方混在する場合
ああ、言葉が足りませんでした。私はそのような場合を想定して「武器を取ろうと考える事は責められない」と言いたかったのです。失礼しました。

さてその場合ですが……それは、意見が分かれていいと思います。支援したい人、組織、国家は、中国を敵に回す覚悟のもとでならばそれをやっていいのではないでしょうか。

>それすらできない日本政府は
そうですね。中国に近いだけに、中国批判のトーンを抑えてしまう事は当然なのですが、それにしてもトーンが低すぎです。今回は「人権」という大義名分があるのだから、堂々と中国に抗議できる筈なのに。

あとは、市民レヴェルでの抗議行動がそれ程目立っていない、というのも、政府の消極的対応の理由の一つにあるのではないかと。
mukke | URL | 2008/04/12 (土) 22:04:05 [編集]
>耕さん
>文化・宗教で生き残ることもできるという意味で書いたのでした。

なるほど、そういうことですか。その通りでしょうね。私も日本はもうちょっとそういう方向を大事にすべきと日頃から思っています。

ただ、チベットの話で言うと、今回の暴動のきっかけになった直接の動機は「今のチベットでは漢民族が職業でも何事においても優遇されていて、チベット人と漢民族との経済格差が拡大したことによる不満の爆発」だったように報道されていたように思います。それが本当なら、敬虔な仏教徒のチベット人というのは、我々がいささか美化しすぎているのでは?と最近ちょっと思うようになったのです。これはmukkeさんにも聞いてみたいところですが。

もちろん、日本人なんかに比べればはるかに自分たちの文化や宗教を大事にしているのは間違い無いところでしょうが。


>mukkeさん

>チベット仏教の教えに決定的に背いてしまったら、その人は「チベット人」でいられるのでしょうか?

この部分なのですが、それはそれで、チベット仏教原理主義ではありませんか?まあ私は原理主義は嫌いではありませんが、それでは今回の中国への抗議の暴動に立った人たちはチベット人にあらずということになってしまいます。

今や非暴力でもアイデンティティーは守れないのがチベットの現状ですから、誰かがチベット人のアイデンティティーを捨ててでも戦って、その後に同胞がアイデンティティーを守れる非暴力が通用する社会を作る必要があるでしょうと言いたいのです。

自分が一番大事にしているものにみんなが固執してしまっては、何も守れない、誰かが犠牲になる覚悟が必要でしょうと私は言いたいのです。

矛盾しているようですが、そうやって誰かが楯になるために自分の一番大事なもの(この場合は命というより非暴力ということになるのかもしれませんが)を捨てる必要があるのでは?ということです。

他の同胞の一番大事なもの(非暴力というアイデンティティー)を守るために自分の一番大事なもの((非暴力というアイデンティティー)を捨てなければならない、誰かがそれをやらなければならないと私は思います。

それはともかく、日本政府はそんなややこしいことを考える必要など一切無く、ほとんど無抵抗の人たちを弾圧しまくりの中国共産党をもっと批判する、正面からやりにくいなら、水面かやいろんな裏技を駆使して(どんな方法があるかわかりませんが)この機会をのがさず世界に中国の非道を広めるために工作活動に力を入れるべきだと思いますね。
管理人 | URL | 2008/04/13 (日) 09:53:14 [編集]
>敬虔な仏教徒のチベット人というのは、我々がいささか美化しすぎているのでは?
そうかもしれません。チベットにおける格差の不満というのも、暴動の背景にはあるでしょう。更に、急進派が漢民族への報復に手を染めてしまったという情報もあります。

http://a-odagiri.seesaa.net/article/92589606.html

しかしそれでも、ダライ・ラマ猊下が今も多くのチベット人からの尊敬を一身に集めている以上、彼の言う「非暴力」の理想はある程度チベット(及びインドなど世界中に散らばる亡命チベット人のコミュニティ)に根付いているのだろうと思います。

チベットに残った人の中で、誰かがアイデンティティを捨てなければいけない、という考え方もあるでしょうね(ただし、仏教徒としてのアイデンティティもう一度取り戻す事は、困難ですが不可能ではないと思います。敬虔な仏教徒だったアショーカ王ももとは虐殺者でしたし)。

ただ、その考え方を採用する事は、外国でのチベットへの支援運動に停滞をもたらす事になりはしないか? という懸念がやはり大きいのです。文革期のチベットに対する弾圧なんて、この程度ではなかった訳です。それでもその間、一貫してダライ・ラマ猊下は非暴力を貫かれました。結果、欧米の多くの知識人がチベット仏教に魅了され、それが現在のようなチベットに対する圧倒的なまでの草の根レヴェルでの支援に結実している。それを考えると、勝ち目も薄いのに非暴力を捨てるというのは、あまりメリットがないのでは? と思います。

……まとまりのない駄文ですみません。
mukke | URL | 2008/04/13 (日) 14:26:13 [編集]
消えた民族?
チベットと言う国と民族は消えて行きますね。もう手遅れでしょう、アメリカがチベットに軍を進めない限り、でもそれはできません。21世紀中にはネアンデルタール人と同じ運命をたどる事でしょう。
人を信じ、他国を信じ、平和を祈る・・・否定はしませんが、それは国や民衆があっての事、国も人々もいなくなれば虚しく響くだけですね。
Ⅲ号戦車 | URL | 2008/04/13 (日) 14:30:05 [編集]
横レス失礼します。

Ⅲ号戦車さん>
>チベットと言う国と民族は消えて行きますね
それを防ぐ為に、インドのダラムサラに置かれたチベット亡命政府が教育などの活動を行っています。また、欧米にもチベット仏教は(あくまで少数ですが)広まりつつあります(例えば、俳優のリチャード・ギアはチベット仏教徒です)。

http://www.tibethouse.jp/cta/department.html

チベット文明は、現在の亡命政府が活動を続ける限りその命脈を保つでしょう。これが、亡命者たちが持つ意味なのです。彼らは「国を捨てた」のではなく「国を守ろうとしている」人びとと定義されるべきでしょうね。
mukke | URL | 2008/04/13 (日) 15:08:52 [編集]
mukkeさん、コメントありがとうございます。

色々思うところで違いなどまだありますし、私の考えもあんまり変わっていないのですが、mukkeさんのコメントは大変参考になりましたし勉強にもなりましたし、目に見えない変化が私の中に残ったかもしれません。

どうもありがとうございました。
管理人 | URL | 2008/04/14 (月) 08:53:49 [編集]
こちらも、日村さんとお話させて頂いて大変有意義でした。
感謝します。
mukke | URL | 2008/04/14 (月) 22:02:31 [編集]
私見ですが、チベットは史実を見ても親日です。日本はどう応えるか?だと・・。ごめんなさい。
匿名 | URL | 2008/04/17 (木) 00:52:26 [編集]
相手の国が親日だから守るということは、もし反日だったらホロコーストされようが放っておけという話になりかねませんよね?いずれにしろ、今日この問題について新しいエントリーを書いておきました。
管理人 | URL | 2008/04/17 (木) 09:36:56 [編集]
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