右余極説
右翼ではなく余り極端でもなく説明したい(笑)
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改革の正体
さて、今日は4月1日で新年度ですね。ここ最近になって、ようやく新自由主義に基づく改革への批判も、以前よりは話を聞いて貰える風潮になってきたように思います。そこで、過去の、旧ブログのほうから、それに関連した話をちょっと転載してゆこうと思います。

今回は、2006年9月に書いたものです。
ーーーーー(以下転載)ーーーーー

改革の正体は「国家解体」か「アメリカニズム」か

正論の別冊「今こそ問う 日本人の志はどこへ行った」についてです。最近すっかりマスコミや論壇雑誌に登場することがなくなった西村眞悟議員がひさびさに寄稿しています。そこでなかなか注目に値することを書かれているなあと思ったので、紹介させていただきます。これは昨日ちょっと書いたこととも関係しています。

この別冊正論で西村氏の文章はp50から掲載されていますが、その一つ前には西部邁氏の文章がのっています。この二つの文章を読み比べてみた時、二人ともいわゆる「平成の改革」について批判的に捉えているという点では共通しているのですが、そのとらえ方に微妙な違いがあり、興味深いと思いましたので、両方を紹介させていただきます。私としてはどちらの主張も納得行くものだと思います。

西村眞悟「“小さな部屋”の窓辺にてーーー懊悩と覚悟」から引用

(前略)

ところが、戦後に始まって、高度経済成長が達成されつつあるころから我が国を顕著に覆い始めた風潮は、一貫して国家を悪として、国家と国民を遠ざけることではなかったか。国家があるから戦争が起こる。国家は人権を侵害する。従って、国家がなければ戦争は起こらない。国家がなければ人権が保障される。実は、この考え方は、共産主義者が現国家体制を否定して共産主義革命を狙うときに使う国家憎悪の大衆プロパガンダの論理と同じなのだ。しかし、まさにこれが、私の学生時代にもよく用いられた東京大学の憲法学者が書いた権威ある憲法の教科書を貫く考え方であった。

そして、この風潮は平成になってますます盛んになってきた。即ち、平成七年の戦後五十年の衆議院における謝罪決議は、自民党と社会党の合作記念決議であり、五十年前の大東亜戦争は我が国が悪かったから起こった戦争であるとして改めて世界に日本をして謝罪せしめる異様なものであった。つまり、日本憎悪の発露であった。

さらに、この度の小泉純一郎内閣に至る「改革」の流れも、「官から民へ」「中央集権から地方分権へ」「規制緩和」そして「グローバルスタンダードへの信奉」が共通項であり、結局は今まで通り国家を敵視して国家の関与を否定する次の思想で貫かれている。

官僚つまり国家機構から権限を取り上げて民間に任せば、全てうまくゆく。国家機構から地方に権限を移せばうまくゆく。民間も地方も、国家の規制から開放されればうまくゆく。民間とは国境を越えた金儲けとマネーゲームの世界であるから、依るべきはグローバルスタンダードであり、国家内のローカルな基準は有害だから捨て去るべきだ・・・等々。


現在まで誰も反対しない、即ち、与野党とも反対しない大勢とは、以上の思想を暗黙の前提とした上での「改革」ということになる。

ここに、一部官僚の不祥事であるにもかかわらず、機構全体を葬り去ろうとする異様な糾弾の嵐とホリエモンに対する熱狂的な賞賛という現象の背景がある。そして、この現象が起こるたびに「改革」が進むようになっていた。昨年九月の、郵政民営化選挙の前から自民党首脳やマスコミは、ホリエモン賞賛一色で、民営化反対の自民党議員は、「改革反対の守旧派」で「先の読めない愚か者」扱いであったではないか。そして選挙後、郵政民営化法案は成立し「改革は進んだ」。

しかし、実は「先の読めない愚か者」は、ホリエモンを賞賛した自民党首脳とマスコミであった。振り返れば、昨年九月、選挙戦の街頭行動として「愚か者の共演」が白昼為されていていたことになる。合理化の限界を分からずに、「改革」という言葉に踊っていたのである。

(後略)


西部邁「戦後日本のけじめ」より

GHQ方式の完成が平成改革の正体である

「アメリカに二度と歯向かうことのないように日本国家の構造を抜本的に改革する」、それが対日占領軍GHQ(総司令部)の戦略であった。日本をアメリカ化せよというその戦略は、いわば「米定」の憲法が占領軍の撤退後も半世紀余に及んで維持されていることからもわかるように、戦後日本によって進んで受け入れられたのである。つまり、「民主憲法」から「構造改革」まで、すべて日本がアメリカから「押し戴いたもの」といってよい。

しかし歴史の慣性はそう弱くはなかった。戦後戦中派が各階の指導層を形成していたあいだ、また日本人にとってアメリカ化が現実であるよりも理想であるあいだ、つまり昭和の御世が終わるまでは、アメリカ化の「やり方」において日本流が残存していた。

日本流は、少しずつ薄らいでいったとはいえ、消え去ることはなかったのである。その最たるものは、企業の経営をはじめとして家族、地域そして政党の運営にまで至る、日本的集団運営法であろう。

アメリカ化の強まりを示す上昇曲線がその理想の密度の薄まりを表す下降曲線をはっきりと上回ることになった、その時点が平成時代の開始期であったと思われる。事実、その時期に各界でいっせいに「世代交代」が行われ、世はアプレゲール(大戦後派)の領導するところとなった。彼らによって遂行され来たった「平成改革」が戦後における日本のアメリカ化に最終コーナーを回らせ、ゴールへとひた走らせた。

言い換えると、平成五年から始まったアメリカの「年次改革要望書」が着実に実行されてきたのは、アメリカの陰謀や恫喝によるというのではない。むしろ、それは日本のアプレゲールたちによる「戦後の完成」をめざす企てであったのだ。

見過ごしにできないのは、保守派に与すると標榜していた論客や(世論および言論の)メディアの大半がこの企てに、おおよそ賛同していたということである。ここに、「アメリカ化の完成」とは保守の思想と行動の首の骨が折られることだ、という認識がいかに不足していたかが如実に物語られている。


アメリカ・プロブレムを解けないのは似非保守である

思えば、平成の初期、「ジャパン・プロブレム」のことが大いに取り沙汰された。それは、一言でいえば、我が国における(政府の官僚主義のみならず民間の談合方式を含むような)集団主義の残滓を一掃せよとの要求であった。

その要求はアメリカ化の徹底ということに等しいものである。なぜといって、そこでは、どんな人間も「公人性と私人性」および「個人性と集団性」の四面的な人格を有しているという真実が無視されているからだ。そして、そのうちの公人性と集団性の何たるかはその国の歴史の如何によって大きく左右される、という真実が等閑視されているからである。


アメリカニズムの人間学的な内実は、私人性と個人性とのみを有した市民たちが自発的に寄り集まり、多数決制や社会契約によって、公共機関や集団組織を作り出すという、個人主義的な偏向にこそある。

しかし歴史感覚を有した国民ならば、個人主義が最も強く発揮されがちの経済行動の空間にあってすら、その横軸は市場の自由交換であるものの、縦軸は組織の規制保護であると承知している。アメリカは横軸に依りすぎており日本は縦軸に近づきすぎている、それが日米の葛藤の原因だ、という判断に立って、日米両国が「構造調整」の協議をやる必要はあったであろう。

しかしそうならば日米間の「コンフリクト・プロブレム」とよばれるべきであった。戦後六十年間、我が国に滔々と流れてきたのは敗戦国民のトラウマ(消すことの叶わぬ精神の傷跡)である、つまりアメリカ流が日本流よりも勝れているとする劣等感なのである。その線に沿って、今の、米軍基地の移転問題についてであれBSE(狂牛病)牛肉の輸入問題においてであれ、アメリカの意向に添うのがアプレゲールの習い性となっている。

共通の見方として、平成に入ってからの「改革」を含めた、日本という国の急激な変化を否定的に捉え、その背景にあるものを西村氏は「国家否定の思想」と捉え、西部氏は「アメリカニズムに基づく個人主義」「GHQによる日本統治の完成」と捉えています。

そして共通しているのは、いずれも日本という国を否定的に見る人、日本流のやり方にたいして自信がもてない人々が多数を占めるようになってしまったことが原因と捉えている点でしょうか。

これらの人々というのは、西部氏が書いている通り、アプレゲール(戦後派)とよばれる人々、戦後の憲法の下で国家否定の思想を刷り込まれつつ「個人の自由」を享受し、アメリカに憧れながら育った「国家否定」「個人主義」の世代です。

そのような世代が台頭してきたために、平成以降の日本が急激に変化しつつあるのは確かだと私も思います。

ようするに、それが国家否定のイデオロギーなのかアメリカ化なのかわかりませんが、いずれにしろ「戦後的な思想」に毒された世代が平成に入ると、日本という国の中枢、各界の指導層を占めるようになり、そしてまた国民全体もアプレゲールが大半となったわけです。

したがって、この改革が「戦後の完成」であることは間違いないでしょう。そしてそれは決して良い意味ではありません。ついに「戦後的なるもの」が日本において完成してしまった。それがGHQ方式であれ国家解体思想であれ、日本を日本でなくしてしまうようなものであるのは間違いないでしょう。

それから多少話はそれますが、西村氏が「正しきは現在の大勢の反対にあり」ということを書かれています。西村氏はずっと大勢の反対をめざしてきたのだそうです。なぜそう考えるかというところが興味深くて、これは旧社会党の主張の反対である旧民社党の基準で考えるのが正しいという西村氏の経験則によるものだそうです。つまり西村氏が反対してきたことというのは、ずっと戦後の大勢を占めてきた以下のような概念です。

(戦後の多数派)→(西村氏の判断)
「国家は人権を侵害する」→「国家なしに人権は守れぬ(拉致解決も)」
「日本は悪い国である」→「日本は善い国である」
「日本は反省すべきである」→「何も反省などしない」
「靖国神社参拝反対」→「参拝大賛成」
「会社は株主のものである」→「そこで働く勤労者のものだ」
「構造改革」→「日本型システムを守れ」

そして今や社会党は消滅してしまいましたが、与野党ともに社会党なき社会党路線の延長にあると捉え、その正体とは「日本国憲法と戦後という時代」であり、まさに小泉内閣はそれを象徴する「改革政権」であると言っています。

これまでの多くの改革の流れを朝日新聞も支持しています。というか、小泉政権になるまでは左系のメディアがずっと言ってきたことをやっているのです。またホリエモンだって逮捕されるまでは朝日新聞なども持ち上げていました。だから、どうもうこれらに対してさんくさいと感じていました。

実は私の中にも経験則があって、政治や歴史認識に関して、だいたい世論とか大勢の言っている事は間違いが多いというものです。

というのは世論というのは結局マスコミが作り出すものです。国民が自分で考えたり調べたりして出す結論の集約ではなく、自分の生活で精一杯で忙しい人が、ワイドショーとか新聞の見出しなんかを見た程度で判断した意見の集約が世論なわけですから、結局はマスコミの意見でしか無いと思っています。

そして、マスコミというのはまさに反国家のイデオロギーに染まり、日本国憲法の理念を大切にしましょうと言ってるわけです。それが顕著なのは朝日や毎日とか岩波系列です。そして一方の産経や読売、文藝春秋などは親米メディアです。もっともひどいのは反日・媚中・媚米であり日本流を全否定の日経ですが。

このようなメディアが猛威をふるっている戦後という時代において、そのメディアによって形成される世論や多数意見というものが、そもそも正しいはずがないでしょう。

ーーーーー(転載ここまで)ーーーーー

以下、コメント欄からも転載します。「drmccoy」というのが私のコメントです。

ーーーーー(以下コメント欄より転載)ーーーーー

たか

日本のガンは左翼マスコミですねえ。朝日新聞の反対のことやってれば良いのだというバロメータにはなるんですが。言ってることが無茶苦茶。どうしてあんなに頭が悪いのか、信じられません。

左翼マスコミの言う通りにやったらえらい目にあった典型なのは、従軍慰安婦。謝罪したおしたあげくウソだとばれて、さらに世界中に日本人は人非人だと宣伝してもらってるわけで。まともな大人なら、恥ずかしくて新聞など出せなくなりますよ。
左翼マスコミがなんと言おうと、保守政権が続いてきたことは、日本国民の良識を表してます。

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nami-a

>そして共通しているのは、いずれも日本という国を否定的に見る人、日本流のやり方にたいして自信がもてない人々が多数を占めるようになってしまったことが原因と捉えている点でしょうか。

イデオロギーだけで読み解こうとすると矛盾が生じるんじゃないでしょうか。日本は戦後、世界第2位の経済大国になり、メイドインジャパン(日本製品)は世界市場で圧巻していたのです。しかし、日本製品が売れなくなってきた。理由は、値段が高いからです。国際競争力の低下という視点を入れないと改革の問題点が浮き彫りにならないと思います。

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drmccoy

>たかさん
その保守政権がマスコミの左からの引っ張りによって、すでに保守政権でなくなってしまっている、ということなんですよ。しかも歴史認識に関しては保守政権などなかったということでsもあります。

>nami-aさん
私は平成以後の話をしているわけです。戦後世界第二位の経済大国になれたのは、すくなくとも目指す方向性は間違っていつつも、そのやり方において日本流が残っていたから、昭和までは成功していた(ように見えた)ということです。

平成になって、たとえば国際競争力の低下とか言うのもそうだと思いますが、グローバリズムとかもっともらしい(しかし必ずしも間違ってはいない)理由を持ってきて日本流を自ら否定し、というか日本流を否定するための理由を必死で探し出してまで、とにかく日本流のやり方を排除してしまったということが問題だと私は思っています。その完成が平成改革の正体だと。

まず昭和までの日本流のやり方を今後転換して、ふたたび経済大国として浮上できるチャンスは絶対にないと思います。ただもちろん、日本流を守ったからと言って、これまた経済大国に再浮上できるかどうかもわかりません。

しかし、日本的な集団運営法は結局のところ日本的な共同体の維持には役立つはずで、それを捨ててしまうのは日本人らしさを捨てることにもなると思います。日本的集団運営法にかぎらず、日本の価値を守ってゆくことが大切だと私は思います。経済力を失っても、まだ大切なものがあると、その時になってわかることでしょう。

このままでは、経済力を失えば、日本にはほとんど何も残っていないという状態になりかねません。国の力には軍事力と経済力と価値の力とありますが、価値の力こそが国家を存続させる最も重要な原動力となるものだと思いますので。

少々経済力を失っても、まだ日本には価値がある、という状態にするためにも、「らしさ」というものは大切だと思います。

どうせ日本の経済力なんて、他国にたかられるだけとか、国内を無駄に豊かにしてきただけとかで(ちょっと極論かな?)、そういう側面は少々失われても影響はないと思いますが、「らしさ」を失っては日本でなくなってしまうと思います。

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岩手の田舎人

蘇峰の「終戦後日記」が紹介されていました
http://vaccine.sblo.jp/article/1205957.html
>日本を亡ぼすものは米人ではない。日本人である。予をして言わしむれば、米人が勝ったのではない。日本人が負けたのである。<

今回のテーマと似たことを昭和20年9月25日の日記に書いているということだから、日本人の特徴なのか?
迎合というのか事大というのか。
まあといかく、変節がよろしくないということのよう。変節という前に、しっかりした考えなり価値観なりをもたなければ流されるだけで、変節したとすら気がつかないのかもしれない。==>自分のこと。

今何が起こっているのかも、まずは過去から学ばなければいけません。過去を知ること、調べることですね。

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DBGTSPECIAL

日本らしさは失うには惜しい美徳もあると思うのです。年功序列や終身雇用など、悪しきものとされますが、それがあるから安心して働いてこられたし、希望も持てたんです。聖書やコーランなどのはっきり目に見える

形での人間のかくあるべき姿、というものが今の日本にはない。
少し前は世間体とか、「恥の文化」とかが代用していた。もはやそれもない。日本は孤立を恐れないでいいと思う。もともとどこの国にもなような

特殊な文化を育んできたのだから。それを誇りにして良いと思います。

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ようちゃん

温故知新の精神の見直しだと思います。新しい知識や価値観を直ぐに丸々飲み込むのでは無く、過去の歴史や日本の風土によく昇華し易くして身に付けてゆく。せっかちに勧めるのは弊害が出る。出来上がって直ぐに丸呑みしたら熱くて火傷するのは自明なのです。羹に懲りて冷ましすぎでは 旨みも逃げるけれど、手加減、匙加減、舌加減で調節しながら修正して国際化も使いこなす器用さが日本人にはあると思います。

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drmccoy

>岩手の田舎人さん
日本人は適応力というか吸収力がすごいのは確かですよね。それが成功したのが明治維新ではないかと思いますが、しかし明治維新そのものは英語でリストレーション(復古)と言うように「らしさを取り戻す」という側面もあったわけですし、戦後などを見ると、とにかく戦勝国に対してひたすら適応することにのみ腐心するようになってしまったのではないかと思います。

>DBGTSPECIALさん
そうですね、私も年功序列や終身雇用は、日本人自身が積極的に捨てるようなものだとはとても思えません。今政府がやろうとしていることは、とにかく社会を変化させてその流動性を増してどんどん不安定にしているだけだと思います。やはり社会を安定化させ、変化は極力抑える、外部に適応するにしても自分たちの芯を見失わないことが大切ではないかと思います。

>ようちゃん
温故知新、その通りですね。とにかく新しいもの、というか欧米の理想の上澄みだけを取り入れようとしすぎなのだと思います。とにかく消化不良のうちに何でも急激に取り込もうとすれば、お腹をこわしてしまうのは当然で、それが戦後の日本の社会ではないかと思います。

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獅子舞

なぜ「国際競争力」にとらわれてはいけないのか 専修大学教授 野口 旭
http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no166/k_hokoku..htm

仮に国際競争力なる定義があるにしても

個々の企業が必死にリストラ、コスト削減→消費マインド低下、景気冷え込み、輸出増大、輸入減少→経常黒字の拡大、円高→さらなる景気悪化で競争力低下

多数の政治家及びインチキマスコミはいまだにさらなる構造改革を、とデマを撒き散らしている。本当に状況が改善されるなら改革も必要だけど。
両者とも流行にのかって公言してしまったため、間違いだと気づいてても撤回できないのだけなのでは、と最近思い始めてきた。

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drmccoy

>獅子舞さん、レスが遅くなり申し訳ありませんでした。
これは参考になる話をありがとうございます。私も構造改革しても余計に悪くなるだけで、見直すべき部分が間違っていると思いますから、よいことは何もないどころか悪くなると思うのですが、テレビなんかみると「もっと構造改革を徹底せよ」という世論のほうが多いみたいですね。世論とともに滅びるのはいやですね。マスコミが原因だと思いますが。



ーーーーー(コメント欄より転載終わり)ーーーーー

この頃にもなかなかハイレベルのコメントをつけてくださるかたがたが多数おられて、それがむしろ私のブログの自慢でもあったのですが、最近はどうされているのでしょうか。

更新を滞らせている間に忘れられてしまって、どこかへ行かれてしまったのならば残念です。やはり、少々無理をしてでも、継続し続けるというのは大切だなあとあらためて思いました。

それにしても、私はここでも、昨日書いた国家存続のための3つの力の話をしているのにはちょっと笑いました。

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