右余極説
右翼ではなく余り極端でもなく説明したい(笑)
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善き価値観を構築する努力を
私は、長期間ブログの更新を滞らせた後に再開したわけなのですが、再開以来、他のブログをあまりちゃんと読んでいません。もちろん、自分のリンク集のリンク先でどんな事が書かれているのかおおまかにチェックしたりくらいはするのですが、以前に比べると真剣に読むことが無くなりました。

それは何故かと言うと、ブログを停止していた理由とも関係しています。ブログを停止していていた理由は、自分で自分に謹慎処分をかけていたのです。

あるブロガーにかなり影響されて、運動に加担した上に、自分が小銭をまきあげられるだけならまだしも、同じような被害にブログに来てくださっていた方々を巻き込んでしまった、詐欺被害にあわせてしまったかと思うと、これは謹慎しておかなければと思いました。
私のブログの論調がその詐欺師に100%影響までされたわけではありませんが、彼が麻生氏を応援しているというので、麻生批判を若干遠慮したりとか、好きでもない白洲次朗を持ち上げたりしたこともありました。本心で言えば、私は吉田茂がらみの人間をあまり評価していません。今から考えると、情けない限りです。

そこで、ブログを再開するにあたっては、他のブロガーと組んだりしない、あまり影響を受けすぎない、自分の思ったことを率直に書くようにする、と決めたわけです。

そういう事もあって、先日はあえて、世襲議員擁護論によって自分が支持している人物の批判も書いたわけです。誰であれ、あまりマンセーしないようにしよう、自分の意見と異なる場合は率直にぶつけてみようと(ぶつけはしませんでしたが)思った次第です。

ただ、やっぱり他のブログの論調も気になります。そこで、ここ数日、いくつかブログを拝見していました。

まずは最近よくコメントに来てくださる、柳生氏のブログですが、こちらはかなりユニークな内容というか、キャラクターがユニークなのはコメントいただいた時点でわかっていましたが、主張のされ方もなかなかユニークで、私とはかなり根本的に違った考え方であることがわかりました。

だからダメとか言いたいのではありませんが、たぶん相互理解は困難を極めるので、できれば距離を保ちたいなあと言うのが正直なところです。

それから、柳生氏がコメントくださった頃に、浪人さん喜八さん晴耕雨読さんあたりも読ませていただきましたが、この中では私から見て浪人さんがいちばんバランスが取れているように感じましたが、浪人さんのブログも私のブラウザではちゃんと表記されないので読むのが大変なため、詳しく読んだわけではありませんから、この意見は変わるかもしれません。

あと他のブログについては、やはり私とはちょっと考え方が違う部分もある、もちろん共通する部分もあり、ネオリベ批判のような部分は参考になるし共感もできるのですが、価値観が違うところがあると思います。一部、読者も共通しているのではないかと思います。

その点、昨日もコメントくださった、耕さん(歴史と日本人)のブログは私からすると期待がふくらんでいます。保守思想という点で勉強になりそうな印象を受けました。清廉会というなかなか面白いことをされているようです。この対談はいったいどこでやっているのでしょうかね。

ちなみに、清廉会の掲示板を見たら、柳生さんが荒らしまくっているのを発見(笑)。ああいう書き込みは、反感を買うだけではないでしょうか?そういうことをしている時間があったら、もうちょっと話を聞いてくれそうなところに行って主張したほうが良いと思います。

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ところで、ここからようやく本題に入りますが・・・

上記ブログのエントリーで最近若干の違和感を覚えたものがありまして、まず、たとえば喜八さんの二世三世議員批判についてですが、それは先日書きましたので、ここでは繰り返しません。

他の点については、喜八さんとか晴耕雨読さん両方にたまたま違和感を覚えた部分に共通点があるように私には思えましたので、そのことについて今日は書かせていただきます。それも、経済政策とか憲法とかいうような表面的な問題ではなく、もっと根本的な部分で何か違うと感じました。

どういう話かと言いますと、「価値観」にかかわる内容についてです。どうも、意見の異なるブロガーと同盟みたいなことをしているせいかなあとも思いましたが、正確な理由はわかりません。ちょっと価値相対主義的、虚無主義的な印象を受けたのです。

晴耕雨読さんの「価値観や論理への隷属」から抜け出す簡単な方法

喜八さんの意見の違いはリスク分散

これらのエントリーのどちらも、「自分の考えはもしかして間違っているかもしれない」という謙虚さであるとか、「無知の知」を自覚されているというふうに考えれば、立派だと思うし共感をまったくしないわけでもないのですが、しかしよく考えるとやはり違和感を感じる部分があります。

まず、喜八さんの考え方は、多様な意見、多様な価値観をそれぞれ尊重しようということだと思うのですが(読み違えていたらすみません)、もちろん政府が一つの価値観を権力で強制するような社会みたいものがとんでもないのはその通りですが、また、現状のように世論を絶対的なもののごとく持ち上げる風潮も同じくとんでもないと思いますが、でも、では、どんな異なった考え方も仲良く共存できると思うのは楽観的すぎるように思います。

思想というのは価値観とかかわってくるし、それは優劣の判断を伴います。やはり議論によって、もしくは批判によって常にあらゆる価値観というのは、その内容を検証されつづけなければならないものだと思います。

「あなたの価値も私の価値もおたがいに尊重しましょう」、というきれいごとでは、価値相対主義に陥ってしまいます。価値相対主義は他者への無関心の裏返しです。お互いが孤立してバラバラの個人主義の社会であり、それはニヒリズムと同じような、下の方で書くような問題の多い社会をもたらします。

そう考えると、お互いの考え方、価値観については、やはり相対する、相矛盾する考え方の間では、批判や議論による検証は絶対に必要だと思います。

また、いろいろな価値観が常に検証されつづければこそ、歴史的に長く続いた価値観というものが、それなりに重みを持つ、伝統の精神というのは大事な価値であるという、保守の人間が言う「時効」という概念となるわけです。

それから、晴耕雨読さんのほうですが、これも価値相対主義というか虚無主義に近いことを書かれているようにも読めます(これまた、読み違えていたらすみません)。

自分なんかにこの世のなにがわかるわけでもない、という感覚は、わからないわけでもありませんが、人間の歴史というのは、少しでも真実に近づきたい、より正しい価値観を見つけたいという、試行錯誤と格闘の歴史でもあると思います。

そういうものを知ろうともせずに、自分の興味のままに、感性のおもむくままに、価値観にしばられずに生きるのが良いと言っているのでしょうか?

何が正しいのかわからないからと言って、正しいものなど無いのだと言ってしまうのも、正しいものを見つけようとする努力を無意味と思うのも、どちらもニヒリズムではないでしょうか?

私は、ニヒリズムこそ現代文明の病理だと思っています。

たしかに我々は、近代以前には自明と思われてきたような価値観がことごとく崩壊して行ったのを知っています。

その近代以前の価値観は、たしかに真理ではなかったのかもしれませんが、人々に何らかの価値を与え、それによって世界をあるていど統一して解釈するような手助けとなり、それが秩序の源にもなっていました。

真理ではなかったとしても、それが固定観念にすぎなかったとしても、さまざまな弊害をもたらしたとしても、そうした価値は絶対に必要なものであったし、これからも必要であると私は思います。

社会を広く覆ってくれる価値観が無くなればどうなるか。人々は社会というものが何の統一性も持たず、ただたまたま存在しているだけの空間としか思われず、個人個人がその社会ともその社会の歴史ともつながりを持てずに孤立してしまう。

そして、個人のあらゆる行為が社会的、歴史的意味を失ってしまう。何のために生きて何のために行動するのか、すべきなのかわからなくなってしまうでしょう。

自分の行為の確かな意味や目的を確信できない状態に人々が支配されるわけです。何をすれば良いのか、どうふるまうのが良いのかがわからない状態になります。そうなると人々はどうふるまうか。

考えられるのは、快楽主義(ヘドニズム)か虚無主義(ニヒリズム)かです。

ひたすら瞬間瞬間、その場の気のおもむくまま、自分の好きなこと、快楽を得られることを追求するような生き方。もしくは、何をしても無駄だとシニカルに構えてしまうようなニヒリズムに満ちた生き方。ひたすら動物のように目先の快楽を追い求めるか、生きる目的を喪失してしまうか。

何事も無意味だというニヒリズムに落ち込まなかったとしても、今その瞬間の自己の情念や欲望だけがすべてになってしまいます。このところ拝金主義が勢いを増している理由もそこらへんにあると思います。

個人的な欲望や瞬間的な情緒・イメージによって浮動する世論が政治の世界を支配する原因も、同じように今の世の中、皆が確かな価値を失っていることが原因です。

今我々に必要なのは、そうしたヘドニズムやニヒリズムに満ちた生き方から人々をすくい上げてくれそうな価値観を見いだすことだと思います。

戦後の日本は、自由・民主・物質的経済的豊かさというものを価値として追求してきました。

それは、戦後の焼け野原状態での不自由や抑圧や貧困からの開放という点で、確かに一定の価値として人々の心を捉えたものだったでしょう。

しかし、そうした価値をすでにかなり手にしてしまった我々が、いつまでもその価値を高く掲げ続けることは困難なっていますし、それらが確かな価値であるとは言えなくなっています。

それに替わる価値が見いだされていないままに、確かな価値が失われている現代だからこそ、価値相対主義やニヒリズムが世を覆っているのだろうと思います。

豊かさも、自由も民主も、これらの実現がすでに達成されてしまった現代において、自由や民主主義こそ最大の価値であると声高に主張することが、さらなるニヒリズムの拡大をもたらす可能性すらあると言えます。

今我々が考えるべきは、一体、何のために経済的豊かさを求め、自由の拡大によって何をするのか、民主主義によって何を決めるのかという、より本質的な、本来の「目的」に関する問いかけではないでしょうか?

価値を追求するうえで、本当に大切なものを見失わない方法は、「目的」と「手段」を取り違えないことだと思います。

経済成長、自由・民主の拡大というのは、それらが圧倒的に不足している状況下では、たしかに「目的」にはなりうるものですが、本質的には「手段」にすぎないものです。

金を稼いで何に使うのか、自由になったら何をするのか、民が主体になって何を決めるのか、そういう目的をずっとろくに考えてこなかったのです。その目的こそが本当の価値観です。

本来は「手段」にすぎぬものがいつまでも「目的」であり続けることによって、自由も民主も経済成長も、すでに内容空疎なお題目と化してしまったのです。

そうして現代の日本人はまさに、一体何のために稼ぎ、何のために働き、何のために勉強をして、何のために生きているのか、生きる目的を失って呆然自失状態なのです。

一体何のための経済競争なのか、何のための経済成長なのか、何のための改革なのか、そういうこともわからなくなっているのです。

この目的喪失の時代、ニヒリズムの時代には、やはり何らかの価値観の構築を模索し、我々が目ざすべき「善き社会」のイメージを描き出すことが必要です。

そのためには、既存の多くの価値観を検証し、また場合によっては歴史的な価値観を掘り起こし、振りかえって取り戻す努力をする必要もあるのではないか、ということを私は考えます。温故知新も一つの方法です。

ともかく、人々が善く生きるには、目的が必要であり、そのためには善き価値観が必要です。そういう思想や価値観が簡単に見つかるとも思いませんが、思想や価値観の優劣や真偽・善悪・美醜を検証することを躊躇してはいけない、検証の努力は続けなければいけないと思います。

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コメント
この記事へのコメント
なんとも、目頭が熱くなるほどのエントリーですね。仕事中ですが取り急ぎ、しっかり読ませて頂きましたということで応援クリックいたします。
ユーグン | URL | 2008/03/28 (金) 12:24:43 [編集]
現代は物は豊かになりましたが、反比例して心は貧しくなりました。江戸時代は物は持たないが心は豊かでした。その幸せな様を多くの外国人達が書き残しております。江戸の庶民は近所に「あくびの師匠」が居ると聞くと習いに行くぐらいに、道楽にお金と時間を使ったそうです。庶民が花見をする習慣も世界に類が無いそうです。本当の贅沢とは心の豊かさなのかもしれません。
花火と金魚 | URL | 2008/03/28 (金) 14:32:55 [編集]
水清くして魚棲まず?
拙者は
小泉将軍さまと竹中お目付け役さまの命により
諸国の外様大名・不逞浪人の不穏な動きを探索いたすのがお役目じゃ!
(冗談半分に聞いてね?v-12
 
「快楽主義とニヒリズムに陥ってはいけない!」
とのお説。
諒解しました。
貴藩のお取り潰しはありません。
(これも冗談ですが・・・v-15
 
ただ私の言いたいことは
「中国がGDPで日本を追い抜くことになったら
ノンキなことも言ってられない!」
ということです。
経済力=軍事力
ですからね。
「新自由主義や規制緩和にもそれなりの理由がある」
ということです。
柳生昴 | URL | 2008/03/28 (金) 15:49:26 [編集]
はじめまして。文章上手いですね。ユーグンさんの言うように私も心に熱いものを感じました。「手段」と「目的」の話ですが、自分も未熟ながら日村さんの言っていることが実感として現代日本人の問題としてあると思いました。政治や思想というものは、その時代や情勢においての手段であって、一つの時代に有効だったものを、いつまでも墨守していたのでは腐敗してしまうと思います。敗戦後、日本が物質的豊かさを求めたのは当然のことですし、そうするしかなかったでしょう。しかしその物質的豊かさへの努力が実り経済大国となったのですが、その価値観は物質的豊かさの中で育った子供たちには理解されず、逆にストレスさえ与え家庭崩壊、イジメ、自殺と見るに堪えない有様です。そういう状況に対して、物質的豊かさと心の豊かさを対立概念のように語る人もいますが、自分はこれもちがうと思うんです。人は物質に生かされているし、心があるから生きている。善き価値観の構築への努力、今、最も重要なことだと思います。
きつ | URL | 2008/03/28 (金) 19:26:05 [編集]
お褒めのお言葉非常に光栄です。
清廉会の活動は基本的にヤフーメッセンジャーでやって、それをブログにアップする形をとっています。

日村さまにもゲストとして参加してほしいくらいなのですが、「他のブロガーと組んだりしない」そうなので不可能かもしれませんね。

とにかく私のブログや清廉会での対談・座談会の更新を心待ちにしてくださるのならばこれほど名誉なことはありません。
| URL | 2008/03/28 (金) 22:39:41 [編集]
blogの本題の個人的によく生きる、とは少し違うが、少なくとも、
「日本」という国家が目的としていることははっきりしている。
それは「大和民族の繁栄」。
この目的の遂行のためだけに日本という国家が存在している。

この認識は、戦前や戦中の人間の根底にはあったと思うが、大和魂の失われた
今のほとんどの人間にはないだろうね。なぜかというと、GHQやアカ、戦勝国民が、
大和民族を全否定するよう、情報機関などを使って誘導し、それが大成功したからね。
これは彼らにとって非常に邪魔な存在だからね。
でもこれって、よく考えると日本にとってはすごく「致命的」なことなのに、
みんな思考停止して(させられて)考えないんだよね。
#ここを読んでいる人なら不要だと思うけど、一応。
#あの戦争を起こしたのは大和民族の侵略性などではなく、
#アカのシナ地方(そして日本の)制圧という目的のためだからね。
#情報操作に引っかからないように。

「大和民族の繁栄」するにはどうしたらいいか。
→子孫を残し、この世界を渡り歩いて・生き抜いていくにはどうしたらいいのか。
→現状はどうか?
 ・我々大和民族に敵対する組織はないか?
 ・対外勢力をどのように我々の有利になるよう操るのか
 ・資金(経済状態)はどうか
 ・男と女が中むつまじく、子孫を作り暮らしていくにはどうすればいいか?少子化は何が問題か?
 ・我々は如何に誇らしい文明を作り現在まで歴史を紡いできたのか

などにつながっていく。しかし、現状の多くの人間の価値観は資本主義。
つまり自らの快楽をいかにして取得するのかという価値観を煽られている。
7743 | URL | 2008/03/29 (土) 00:07:41 [編集]
>ユーグンさん
 過分にお褒め頂き恐縮です。というのも、ここで書いたようなことは何も私のオリジナルではなくて、佐伯啓思氏あたりの言っていることを二番煎じしただけですので。
しかし、金以外に価値が無い、というか金儲けは最高の価値だ!みたいなホリエモンや村上あたりが出てきたときから、私も価値というものについて深く考えさせられ続けています。

>花火と金魚さん
 おっしゃること、よくわかります。「逝きし世の面影」という本にもそこらあたりのことはよく書かれていました。肉体と精神、精神と物質、これらをかならずしも対立させて見る必要も無いとは思いますが、物質の豊かさにしても精神あってのものでしょうから、もうちょっと心の贅沢に気をはらってほしいですね。たぶんそれを不可能にして人々を物神に取り憑かせているのは、コマーシャリズムだと私は思っています。


>柳生さん
 なかなか愛嬌あるコメントありがとうございます。最初の頃の印象とずいぶん変わってマイルドになられましたね。ありがたいことです。
  経済力=軍事力
ということでしたらば、そういう目的とはっきり見定めるなら、「あり」だと私も思います。ただ、むきだしの資本主義・市場主義というのは、国家の枠組みを崩壊させかねない性質も供えていますから、そこらへんを心配しているわけです。


>きつさん
 これまた過分なお褒めのお言葉、ありがとうございます。でもホント、二番煎じですので、恥ずかしいかぎりです。
 私はもちろん物質も大事だと思いますよ。でも今、巷であふれているような、ああいうものが本当に必要なのでしょうかね?みんなが携帯電話を持ったり、みんなが車にのったり(私の趣味はドライブですが!)、みんなが液晶だかプラズマだかのテレビを見たりとか、ああいう同じ楽しみしか無いものかと、それが豊かさなのかと思うと、ちょっと虚しくなります。
 実は、江戸時代に物質に頼らない文化が日本で花開いたのは、日本人の強い適応力によるものではないかと思っていまして、物質の無い時代、欲望を自己抑制することが強みになる時代でしたから、ああいう文化とか武士道精神みたいなものが育ったように思います。
 そしてあいかわらず適応力が強くて過剰適応になりつつあるのが現代で、環境への適応に日本人の精神が追いつかなくなっているのが戦後なのではないかと思います。


>耕さん
 他のブロガーと組まないというのは、以前あった左派との同盟とか、ああいうのに参加しないということであって、清廉会の場での議論にもしお邪魔させていただけたら、こちらもうれしいです。
 ただ、残念ながら、私のパソコンが旧式のため、いろいろなブログがキレイに表示されないだけではなく、ヤフーメッセンジャーも使えませんので、たぶん無理かと(涙)。
 とにかく耕すさんと清廉会のブログの更新をこれからは注目して見させていただきます。


>7743さん
 資本「主義」というのは、上の誰かへのレスでもちらっと書きましたが、それを徹底した市場原理主義やら規制の撤廃みたいなものは、国家の枠組みを崩壊させかねないものですから、それに気づいた各国は、国家資本主義へと動き出しています。正確にはステート・キャピタリズム(政府資本主義)だと思いますが。
 日本の場合は戦後、わりとそういうことができていたんですよねー、それが強みであったのに、規制緩和とか市場にまかせておけば良いとか、アメリカではすでにそれとは逆の動きになっているというのに、日本は一周遅れでまねしようとしています。
 戦略を描けないというのは、どうも日本人の先天的な欠陥なようですから、一朝一夕にはどうもならないとは思いますが・・・
管理人 | URL | 2008/03/29 (土) 09:10:09 [編集]
とても素晴らしいエントリですね。

すべての価値観を認めるというのは、いかにも戦後思想っぽい考え方ですね。それなら相互に対立する価値観も各々認めるということですから、結果的に「すべての価値観を認めない」ことと同意だと思いますが、そのような矛盾に気が付いているのかどうか・・・

コメント欄で少し気になりましたが、「経済力=軍事力」というのはある程度相関があるでしょうけども、反証が沢山ありますね。
例えば、北朝鮮の軍事力なんて、その経済力からすると驚異以外の何者でもないですよね。対して日本は、GDPが世界で2番目の経済力とはとても思えないヘタレぶり。経済力が現代より低かった戦前の方が、軍事力ははるかに高かったことでしょう。
もっと違う要素が必要であることは自明な気がします。

軍事は経済だけではない学際的な知識が必要ですが、現代日本ではそういう教育がゼロですから、いろいろ問題がありそうですね・・・
海驢 | URL | 2008/03/29 (土) 22:06:33 [編集]
中国の軍事力が3~5倍となっても日本は勝てるのか?!
経済力=軍事力
というのは
「中国がGDP(経済力)で日本を追い抜けば
その軍事力は日本の何倍にもなる!」
という意味です。
そのときになっても日本はキレイごとで勝てるのでしょうか?
柳生昴 | URL | 2008/03/30 (日) 12:25:40 [編集]
日村さん、こんにちは。

>巷であふれているような、ああいうものが本当に必要なのでしょうかね?みんなが携帯電話を持ったり、みんなが車にのったり(私の趣味はドライブですが!)、みんなが液晶だかプラズマだかのテレビを見たり・・・・

皆が皆、必要とするものではないですね。マスコミも企業も常に大衆の購買意欲と見栄を煽っています。流行というのは大衆のお約束のようなものです。KYなどの言葉が流行ることからもわかるように言葉は悪いですが、日本人は戦後から常に本音を言うことにビビっていますから、こういう現状を克服するのは大変だと思います。

>実は、江戸時代に物質に頼らない文化が日本で花開いたのは、日本人の強い適応力によるものではないかと思っていまして、物質の無い時代、欲望を自己抑制することが強みになる時代でしたから、ああいう文化とか武士道精神みたいなものが育ったように思います。

武士道。欲望を自己抑制して、本当の己自身を発揮する。こういう思想をこそ今の時代、見直しつつ、新しいものを創造していかなくては!!と思います。物質は使いようで善にもなり悪にもなる。殺人剣を活人剣に昇華させなければです。
きつ | URL | 2008/04/05 (土) 12:40:36 [編集]
>きつさん

コメントありがとうございます。たぶんみんなモノに群がるのは、コマーシャリズムに無自覚に流されているからだと思います。そして最近になって、エコだのCO2を減らせだの言ってハイブリッドカーに乗ったり、あちこちの電気のスイッチを消したりコンセントを抜いたりして喜んでいる人たちというのも、それと全く同じタイプの人たちであるように私には思えます。

その時のマスコミの主流の言論によって作られる空気に簡単に流される人たちというのが多いようです。
管理人 | URL | 2008/04/07 (月) 08:38:09 [編集]
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