右余極説
右翼ではなく余り極端でもなく説明したい(笑)
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法律万能主義を排せ!
テレビを見ていると、政治家が「日本は法治国家だから・・・」だの言っている。

それは、今の日本の国家の体制はそういうふうになっているのだろう。しかし、法律というのも所詮は人間が作ったもの、中には悪法もある。

悪法かどうかを判断する基準は何かというと、それは人々の常識である。

常識というのは世論とは違う。世論とはその瞬間瞬間に移りゆくもので、私に言わせるとあんなもの糞以下であるが、常識は長い歴史を経て人々の考え方として定着したものである。

社会というのはルールによって治められるべき、という考え方には大賛成である。しかし、そのルールが、法律だけ、法律第一主義・法律万能主義というのには、私は断固反対である。

法律に違反していても、道徳的には正義である、というような場合はいくらでもある。
ルールというのは、その下部構造として、つまり土台としての常識に基づく道徳というものがあり、その上に、議会で制度化された法律が乗っかっている。

法律というのは議会で議論されてから決められるもので、時間がかかるし、経済や産業が中心となって社会制度の変化の多い時代には法律と現実社会制度とのズレがあっという間に生じる。

新しい法律がまにあわなかったり、古い法律がいつまでも残っていたりということもある。

法律がすべてならば、法律に違反しない限りは何をしても良いという考え方を助長し、法の抜け穴をつくような不道徳者が跋扈する。

もっとひどいのになると、法律違反としてばれなければ良いということにもなる。今の経済がそんなことになっている。真面目な勤労者が馬鹿を見るようになっている。

規制緩和して事後処罰の社会というのがその典型である。

このように、法律というのは、どんなに頑張っても穴だらけなのだ。

最近では何でも世論で決めろという流れになっているが、世論というのは(すべてとは言わないが)大半が、多数派のたんなる欲望やその場の気分、深く考えずにとりあえず聞かれたから答えただけ、という程度のものと言って差し支えない。

法律もそんなもので決められがちである。

民主主義社会における法律万能主義は、なおさら危険であり、道徳無き世論を重視する直接民主制によって何でも決められる時代ならば、なおさらである。

そもそも、ルールというのは、何らかの形での「エゴや欲望の制限」を含むものである。ルール造りを世論にまかせると、「エゴや欲望を制限」するのはルール違反ということになりかねないから危険なのだ。

まさに、今の憲法からして、人々の欲望を礼賛するような内容になっている。

しかし、そうなると世の中滅茶苦茶になる。すると今度は一転して世論が言うのは決まって「法律を厳しくせよ」「犯罪には厳罰で処せ」というもの。

本当に世論の幼稚さにはあきれ果てる。

法律にその穴をなくそうとすれば、網の目の如く規制でがんじがらめの強制をするしか無くなってしまうのである。おそるべき超管理社会みたいものである。

規制の緩和と強化という両極端の間で振り子運動するばからしさに気づくべきだ。

そうならないために、法律の穴をふさぐ役割をするのが、常識にもとづく道徳である。

道徳というのは、人々が自分で自分を律するものである。厳しい道徳観を身につけた人間が多ければ、法律の穴があろうが、社会は安定する。自分で自分を律するわけだから、他者からの強制でもなく、心も自由でもある。

そういうことをろくに考えたことも無い、非常識な人間が政治家になり、「日本は法治国家だから」などとしたり顔でものを言うのだろう。

そんな政治家に投票する有権者もどうかしているし、爆笑問題が司会しているような幼稚な政治討論番組を見る人も理解できない。

ああいうのにしょっちゅう出て、ペラペラと軽口たたいているような政治家連中は、どの政党であろうが、消えて無くなって欲しい。そうすれば日本も善くなるだろう。

いや、世論が幅をきかせているうちは無理だろう。


ところで、2007年の7月号の文藝春秋だったと思うが、それには中央教育審議会の会長という偉い立場にある山崎正和という人物が『わたしの「道徳教育」反対論』という文章を書いていた。彼は「道徳など教えられないから法律を守る精神を教えれば良い」と言っている。

こういうふうに、教育行政にたずさわる偉い立場の人間すらおかしくなっているということだろう。道徳なんて学校で教えられないから、かわりに順法精神を教えろ、それで充分と言っている。

結局マニュアル指向なのだろう。大切なのは状況に応じてどうふるまうかを選択できる能力なのだが、それを教えるのは確かに難しいとは思う。

さらに、今の政治家とか教師とかに一体どんな道徳を教えられるのか、それを語る資格があるのかと言われればその通りかもしれない。

しかし、かわりに順法精神を教えろというのも、一歩間違えるとおかしなことになるから私はむしろ反対だ。何度も言うが、法律に違反しても道徳的には正しいということもある。

くりかえしになるが、法律というのは今のように変化の多い時代、現実とのギャップがでてくる。意味のない法律もあるし、逆に法律が追いつかないということもでてくる。

そういう時、意味のない法律を守るのも、法律がないからと言って悪いことをしていないとひらきなおるのも、両方問題だろう。まともな道徳があればこそ、法律の穴や不備が補われるのだから。

ただ、学校で道徳を教えられるかと言うと、実は私もそれには疑問に思っている。私は何も道徳万能論者ではない。

本来、道徳というのは、両親・おじいさんやおばあさん・兄や姉といった家族や、近所のおじさん、おばさんというような地域社会における人間関係から学んでゆくものだろう。
そういう健全な道徳を持つ「地域社会」や「家族関係」が崩壊していることも道徳が失われている一因になっているに違いない。

まず政府のやることは、家族や地域社会の再生だろう。しかし、これは、破壊するのは戦後の数十年でできたかもしれないが、再構築しようと思ったら100年はかかるかもしれない。それくらい気長に、つまり長期的視点にたってやるしかない。

今行われている政策のほとんどは、ごく短期的なスパンで物事を見て、つまり目先の目立ったできごとに、ただ反射しているにすぎないものばかりである。それこそが問題だとも言える。

法律によって権力が、つまり他人が他人の行動を規制することが一つ、そして、道徳によって自らが自らを律する、つまり自分が自分の行動を規制することがもう一つ、これらがセットになって、うまくバランスがとれてこそ、安定した社会が維持されるものと思う。

私は道徳が万能と言いたいのではない・道徳がすたれているからと言って、法律を厳しくしさえすれば良いと考えるのは間違っているし、事後的に法廷闘争にゆだねるなどもってのほかと言いたいだけだ。

現代の問題点は、道徳が失われていること。つまり価値観の喪失によるところが大きい。これは戦後日本人の歴史軽視によるところが大きい。

外国の物まねばかり、必死で外に答えを探そうとばかりして、自分たちの足下、根本つまり、歴史をさかのぼった過去を見ようとは決してしない。進歩主義および「拝」外主義(この場合は排斥の拝ではなく、外国を拝む、排躓するという意味での拝外主義)に満ちているためだろう。

とくに、サヨクおよびホシュの中の改革原理主義者にこのタイプが多い。

さらには、政策においても何事においても、「還元主義」が横行している。社会の要素をバラバラに細かく見て、その部分でしかものごとを理解しようとしない人間が多すぎるし、そういう発想で政策を考えている。

社会は複雑で有機的なものであることを忘れてはいけない。物理主義者が跋扈している。私は有機体論者である。そこらへんについてはまたいずれ書きたい。

また、外ばかりではなく、過去の日本も参考にすべきである。歴史は繰り返す。「革命」の本当の意味は「古き良き価値観を現代の状況において再び(レ)巡り来たらせる(ボリューション)」ことなのである。

過去の日本では、伝統の叡智である慣習や道徳などの規範によって、人々の行動が事前に調整されていたのが、今や慣習は破壊され道徳は失われている。

人々の行動を制御するルールの体系が破壊され、法律も追いつかない。

そうなるとどうなるか。事前に調整がつかないのだから、後からチェックして救済するしかなくなる。

今や、事前調整から事後チェック、事後救済型の社会への移行がおこりつつある。

それが訴訟乱発社会を招いている。今後さらに訴訟乱発社会が進み、事前に規制して行動を調整する社会から、自由にして事後的にチェックする社会へ「改革」しようとしている。そのための司法制度改革が行われ、陪審員制度のようなものまで導入されることになった。

しかし、訴訟が乱発され、判断が陪審員によって下されるようになれば、法廷の場はアメリカを見ればわかるとおり、完全な弱肉強食の場へと転落し、豊富な人脈と資金力を持ち、有名弁護士を雇うことのできる人間ほど、裁判に有利になる。

裁判は正義を争う場ではなく、力を争う場へと変わってしまう。

とにかく自由だ規制緩和だ、道徳なんてクソ食らえだの古い慣習をうち破れだなどと言っているうちに、人々は行動規範を失い、自由はどんどんと暴走して社会が乱れ、その決着を法廷の場における弱肉強食の争いで決めなければならない、そんな社会になろうとしている。

どうしてそんな社会に変わりつつあるのかと言えば、学者や政治家や官僚やマスコミなど社会に大きな影響を与える立場の人間が、アメリカは進んだ素晴らしい国で、日本もアメリカのような社会に改造したほうが良いとか考えていたり、アメリカが日本に「こうしろ」という圧力をかけてきて、その力に抵抗できないなさけない人間しかいないからだろう。

2007年の産経新聞に、藤原正彦氏が以下のような文章を寄稿されていたのをメモしていたので、それを引用して終わりたい。

若い君への年賀状
人類が誇れる文化生んだ日本

藤原正彦(お茶の水女子大教授 数学者)

 してはいけないこと

 新年おめでとう。君にとって、日本そして世界にとって、今年が昨年より少しでもよい年になるように祈っております。といっても、少しでもよい年にするのは実は大変なことです。

 君の生まれたころに比べ、わが国の治安は比較にならないほど悪くなっています。外国人犯罪の激増もあり、世界で飛び抜けてよかった治安がここ10年ほどで一気に崩されてしまいました。

 道徳心の方も大分低下しました。君の生まれたころ、援助交際も電車内での化粧もありませんでした。他人の迷惑にならないことなら何をしてもよい、などと考える人はいませんでした。

 道徳心の低下は若者だけではありません。金融がらみで、法律に触れないことなら何をしてもよい、という大人が多くなりました。人の心は金で買える、と公言するような人間すら出て、新時代の旗手として喝采を浴びました。

 法律には「嘘をついてはいけません」「卑怯なことをしてはいけません」「年寄りや身体の不自由な人をいたわりなさい」「目上の人にきちんと挨拶しなさい」などと書いてありません。「人ごみで喀やくしゃゐをする時はロと鼻を覆いなさい」とも「満員電車で脚を組んだり足を投げ出してはいけません」もありません。すべて道徳なのです。人間のあらゆる行動を法律のみで規制することは原理的に不可能です。

 心情で奮い立つ民族

 法律とは綱のようなもので、どんなに網目を細かくしても必ず隙間があります。だから道徳があるのです。六法全書が厚く弁護士の多い国は恥ずべき国家であり、法律は最小限で、人々が道徳や倫理により自らの行動を自己規制する国が高尚な国なのです。わが国はもともとそのような国だったのです。

 君の生まれる前も学校でのいじめはありました。昔も今もこれからも、いじめたがる者といじめられやすい者はいるのです。世界中どこも同じです。しかたのないことです。

 でも君の生まれたころ、いじめによる自殺ははとんどありませんでした。生命の尊さを皆がわきまえていたからではありません。戦前、生命など吹けば飛ぶようなものでしたが、いじめで自殺する子供は皆無でした。

 いじめがあっても自殺に追いこむまでには発展しなかったのです。卑怯を憎むこころがあったからです。大勢で一人をいじめたり、6年生か1年生を殴ったり、男の子が女の子に手を上げる、などということはたとえあっても怒りにかられた一過性のものでした。ねちねち続ける者に対しては必ず「もうそれ位でいいじゃないか」の声が上がったからです。

 君の生まれたころ、リストラに脅かされながら働くような人はほとんどいませんでした。会社への忠誠心とそれに引き換えに終身雇用というものがあったからです。不安なく穏やかな心で皆が頑張り繁栄を築いていたから、それに嫉妬した世界から働き蜂とかワーカホリックとか言われ続けていたのです。日本人は忠誠心や帰属意識、恩義などの心情で奮い立つ民族です。

 ここ10年余り、市場原理とかでこのような日本人の特性を忘れ、株主中心主義とか成果主義など論理一本槍の改革かなされてきましたから、経済回復さえままならないのです。
 
テレビ消し読書しよう

 なぜこのように何もかもうまくいかなくなったのでしょうか。日本人が祖国への誇りや自信を失ったからです。それらを失うと、自分たちの誇るべき特性や伝統を忘れ、他国のものを気軽にまねてしまうのです。

 君は学校で、戦前は侵略ばかりしていた恥ずかしい国だった、江戸時代は封建制の下で人々は抑圧されたからもっと恥ずかしい国、その前はもっともっと、と習ってきましたね。誤りです。これを60年も続けてきましたから、今では祖国を恥じることが知的態度ということになりました。

 無論、歴史に恥ずペき部分があるのは、どの人間もどの国も同じです。しかしそんな部分ばかりを思いだしうなだれていては、未釆を拓く力は湧くいてきません。そんな負け犬に魅力を感ずる人もいないでしょう。

 100年間世界一の経済繁栄を続けても祖国への真の誇りや自信は生まれてきません。テレビを消して読書に向かうことです。日本の生んだ物語、名作、詩歌などに触れ、独自の文化や芸術に接することです。人類の栄光といってよい上質な文化を生んできた先人や国に対して、敬意と誇りが湧いてくるはずです。君たちの父母や祖父母の果たせなかった、珠玉のような国家の再生は、君たちの双肩にかかっているのです。


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コメント
この記事へのコメント
その通りだと思います・・
いつも拝見させて頂いています。

道徳というモノが口にすらされない社会になってしまっています・・
嘆いているだけではどうにもならないので少しでも自分が訴えていこうと思います、未熟な身ですが・・
楽しみに見ていますのでこれからも宜しくお願いします。
社長 | URL | 2008/03/20 (木) 19:42:34 [編集]
まぁ、仕方ないでしょう。
バカが増えたから、法律が出来るわけで。ただ、最近の法律は、完全にイカレたものばかり。男女共同参画基本法、DV法、痴漢防止法、セクハラ防止法、漫画規制法、まぁ、基準が曖昧な上に、無駄な税金投入+不明瞭な会計処理が当たり前の、インチキ法律ばかりですからね。ぜ~んぶ、創価や総連、民団絡みの過激派出身のフェミ議員や学者が、絡んでますよ。いっそ、新国家樹立し、東京か大阪に進軍しておかないと、いかんかもしれませんね。
新四郎 | URL | 2008/03/20 (木) 21:14:07 [編集]
大体同意です。他にも少し書いてはみたけど、まとまりがなくなったのでこれだけで。
7743 | URL | 2008/03/20 (木) 23:06:11 [編集]
国体の反映が基本
いつも思う事なのですが、憲法が道徳の最高規範のようにいわれる方が沢山居られるようです。しかし考えてみて下さい。例えば日本語を話す、文字として使用する、人に会えば挨拶をする等などが憲法に規定されているでしょうか。この様に憲法に規定されていなくても、社会を運営して行く為になくてはならないものが有ります。それが夫々の国柄です。通常は国の体質、国体と言いますが、現憲法が国体を反映しているでしょうか。大東亜戦争敗戦後押し付けられた現憲法は制定過程に異論の有る所ですが、国の安全を他国に依存する等、とても国体を反しているとは言える代物ではありませんな。
さんきち | URL | 2008/03/20 (木) 23:52:54 [編集]
心にお天道様を
いつも独自の視点でのエントリを楽しみにしています。
法律とは、秩序を維持し国民の生命・財産や公共の利益を守るために、個人や団体の権利に「必要最低限の制限」を加えるものであるべきと思いますが、常識や道徳心の劣化によって、あるいは政治的な利権がらみで、適用範囲が拡大されているようですね。
躾や教育だけの問題ではないのでしょうが、昔から日本人ひとりひとりの心の中にいたはずの「お天道様」という裁判官はどこに行ってしまわれたのでしょうか。
最近では、立法機関であり国家の最高の常識の府であるべき国会もまともに機能していません。
そもそも国会を空転させてまで、行政機関の長たる大臣が立法に関与するのは、三権分立の原則に背く憲法違反ではないのかと、素朴に思うのですが・・
ROM太郎 | URL | 2008/03/21 (金) 05:00:11 [編集]
>社長さん

いつも見てくださっているとのこと、ありがとうございます。反ネオリベ的な論調を評価していただいているようで、嬉しい限りです。最近は以前よりも言っていることを理解してくださる方が少しですが増えたようで、かすかな光明かなあと思っています。

>新四郎さん
たしかに、ろくでもない法律が多いですね。それも、常識の上に乗ったものではなく、社会を自分たちに都合の良いものに「改造」しようとする、左翼的な発想に立ったものが多くて困ったものです。

そういう社会実験的な改造というのは、改革とも同じですが、保守の人間としては警戒すべきものだと思います。


>7743さん
>大体同意です。
それはどうもありがとうございます。私の書いていることも、ちょっとまとまりが足りない気がしますので、気にせずにお書き下さい。(せっかくのコメントに良いレスができているとも自分では思っていませんので、せっかくコメント下さる皆さんには申し訳ないですが)


>さんきちさん
憲法には国体の反映が!というのは実にもっともなことで私も完全に同意です。また、「憲法が道徳の最高規範のようにいわれる方」の言う道徳というのも、普遍的な道徳というか普遍的な価値観なのであって、それはここで私が言っている「常識」とか「共同体の歴史から産まれた道徳」とは違うもので、むしろ私の言っている道徳とは国体に近いものです。憲法改正ではなく新憲法の制定こそ重要ですよね。


>ROM太郎さん
「心にお天道様を」とは良い言葉ですね。おっしゃる通り、日本人ですから、誰かに見られている、それも人間を超えた叡智みたいものを意識する感覚というものが最近の日本人には失われたようですね。

それから、小泉首相のときに思いましたが、日本の三権分立は甘すぎて、立法と行政が一体となって強権的というか、大統領制以上に権力集中しやすい欠点があるなあと思いましたね。これまでの談合的な首相の選び方なら問題なかったのですが、小泉的ポピュリズム直接民主制と議会制民主主義が結びつくと、危険な独裁政治につながりかねないと思いました。
管理人 | URL | 2008/03/21 (金) 14:42:25 [編集]
卑近な例で申し訳ないですが・・・
以前、このエントリにある藤原教授の文章を拝読したとき、私の出身高校(旧東京府立のナンバースクール)の校則を思い出しました。

曰く、「本校生徒の自覚を持って行動すること」
これで全部です。

かれこれ20年ほど経ちますので、今もそのままかどうか不明ですが、在学当時も「校則がたった1行」ということはよく話題に上っていました。

私自身は、あまり素行の良い方ではありませんでしたが、それなりの進学校でもあり、普通の生徒は品行方正で通っていたと思います。

「法で規制して、違反者は事後処罰」という策よりも、経験智に基づく道徳・倫理と自尊心を養うことの方が、はるかに労少なくして穴がないのでしょうね。
「それが難しい」という話もあるかもしれませんが・・・
海驢 | URL | 2008/03/22 (土) 00:59:32 [編集]
シンプル イズ ベスト
日村さま 丁寧なレスをありがとうございます。
上の海驢さまの一行校則で思い出したのですが、従業員のサービスレベルの高さで知られるアメリカの伝説的な優良百貨店ノードストローム、従業員マニュアルもさぞかし分厚いだろうと思われるのですが、実はたった一行、こう書いてあるだけだそうです。
「Rule # 1 -- Use your good judgment in all situations. There will be no additional rules. 」(どんな状況下でも、あなたが最も良いと判断したことを実行しなさい。付則はありません)
もちろん背景には、従業員教育の徹底や顧客最優先の社風などがあるのでしょう。
同様に、マニュアルとしてはリッツカールトンホテルの「クレド」なども有名ですし、リンカーン大統領の名演説も「人民の、人民による・・」の語に集約されて継承されています。
国の内外を問わず政策やマニュアルはシンプルな方がよろしいようですね。
法律もかくあるべし、と思います。
ROM太郎 | URL | 2008/03/22 (土) 03:22:20 [編集]
>海驢さん、ROM太郎さん

道徳というか自分で自分を律するような教育が今されていませんから、「本校生徒の自覚を持って行動すること」みたいな言葉が通じなくなっているようにも思いますし。一歩間違うと性善説みたいになって、これまた難しいと思うんですよねー。

自分で自分を律する、状況に応じて適切な行動ができる、というのは本当にそれが難しいのは確かなんですよねー。でも現状を追いかけているだけではどんどんダメになって行くと思うので、難しくてもそういうことができるように努力してやってゆかなければならないことだと思います。そのためには、日本人としての価値観の再構築が必須だと思います。
管理人 | URL | 2008/03/22 (土) 23:29:09 [編集]
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