右余極説
右翼ではなく余り極端でもなく説明したい(笑)
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靖国参拝・私的と公的
本日も、出張中のため、時間指定の予約投稿となっています。これを書いているのは16日(日)です。

さて、今回は東京出張ですので、今日あたり靖国神社に参拝予定です。昇殿参拝させてもらう予定です。

そこで、靖国参拝に関しての過去のエントリーから転載しておきたいと思います。2005年10月の旧ブログより。小泉首相(当時)がポケットから小銭を取り出して賽銭箱に放り投げて参拝した「事件」の後に書いたようです。

[靖国]「私的」と「公的」
ここでは、小泉首相の今回の靖国参拝を批判したり肯定したりするのではなく、ちょっと理屈をこねまわして、参拝が「私的」とか「公的」とか言われている事についてごちゃごちゃと考えてみたい。

昨日のニュースで参拝の様子を見たが、あまりの軽さに仰天した。何という気軽さ。「二拝二拍手一拝」で参拝してくれと書いてある看板の目の前で、一礼して合掌のみという神式ではないスタイル。ただ、神道の専門家の中でもあれで何の問題もないという人もいるから、それをどうこう言うのはやめておこう。しかし、数年前になるが、小泉首相が伊勢神宮に参拝しているときの映像をテレビで見たところ、きっちり「二拝二拍手一拝」していたが。

しかし、もっとびっくり仰天したのは、あのような「気軽な」参拝にたいして、これまた異常なまでに騒ぎ立てる人々の様子である。反・靖国イデオロギーとでも言おうか。いや、猛烈だった。日の丸を食いちぎるおっさんとか。また執拗に批判的な報道をするマスコミなど。

話を私的・公的にもどすと・・・、先の大阪高裁による違憲「判断」では、いくつかの基準を示して「公的な参拝」としたうえで、政教分離に反するから憲法違反だという「判断」を裁判官がした。その前日には別の高裁がこれまた違った基準から、「私的参拝」とした。これらの判断基準の中にはもっともらしいものもあるが、どちらもしっくりこない。そこで私なりに「私的」「公的」の意味を勝手に考えてみた。

首相の行為に「私的」なものはないなどと極論を吐く人もいたが、それはちょっと単純化してものを言い過ぎである。ただ、多くの行為が「公的」と受け止められざるを得ないのは間違いない。そして、首相の行為の「公的」さの度合いは、ケースバイケースだと思う。

私的か公的か、またどれほど公的であるかは、その行為の社会的関心度によって決まってしまうところがある。たとえば、神社への参拝でも初詣ならどうか。初詣にそれ以上の意味が無いと皆が判断すれば、それは公的な意味をほとんど持たない私的な参拝と言える。目立たないように地元の神社にこっそりと初詣にでも行けば、おそらくそういう事になるだろう。

しかし、たとえ初詣であっても靖国神社へ行ったとなると、そこに初詣以上の「意味」や「意図」を見いだそうとして世間が騒ぐし、実際「戦死者の慰霊・追悼」という意味も付随するだろう。こうなると、「公的」な側面を持つようになる。

皮肉なことだが、その行為が私的な動機にもとづくものであっても、世間が騒ぐことによって公的な意味を持ってしまうということが否定できない。その点から考えると、どのようなスタイルであれ首相が靖国神社に参拝すれば、それはやはり公的な意味を持つ。その点で左翼の批判はある意味正しい。

しかし、「私的」か「公的」かは、別の側面から決まるものでもある。何によってか。その行為の対象や目的によってである。

たとえば首相の身内が結婚式を神社でおこなった場合を考えてみればよい。この場合に神社を訪れて神式の行事に参加する目的は、身内の祝福のためであるから、限りなく私的な意味を持ち、公的な意味はごく狭い。行為の対象は「身内」である。

しかし、靖国神社に戦死者の慰霊・追悼・顕彰のために参拝するということは、その対象が国のために亡くなった方々・公のために亡くなった方々である。したがって、その参拝は公的な意味を持つ。

これは首相に限ったことではない。誰であろうと靖国神社に参拝して、広く国家のために殉じた方々を慰霊・追悼・顕彰するという行為は「公的」な行為である。たとえ個人の信条から促されたものであったとしても、国のため、公のために亡くなった方々を慰霊・追悼・顕彰する行為は、やっぱり「公的」なものに違いないと思う。自分の遺族のみを慰霊しようとする行為ならば私的かもしれないが、広く国家のために亡くなった方々全体を慰霊・追悼・顕彰する行為は、そこに公的な意識が少なからず働いている。

私的な信条から発したとしても、そこには公的な意識がともなうし、首相であるならば公的な意義までもを伴うはずである。

ところで、「公的な行為」の一般論に戻るとして、「公的」にも色々な次元・種類のものが存在する。ここで問題になるのは、憲法の政教分離規定(憲法20条第3項~国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない)である。憲法に違反するかどうかは、「首相の職務として行ったかどうか」によって問われるべきであろう。現在の議論では、公的な立場の人間が公的な参拝をすれば即違憲という感じで、ずいぶん乱暴である。

例えば全国戦没者追悼式典に参加する事ならば、それは首相の職務としてなされているが、現状における靖国参拝の形式はそれとは明らかに違う。どう考えても今回の参拝が「職務として行ったもの」とは思えない。従って、最高裁の示した「目的・効果基準」を考えなくても、公的参拝だからと言って憲法違反ということにはならない。まあ、これは私の勝手な基準であるが、「公的」という言葉の意味は広い。どこかで線を引かなければきりがないだろう。

(ただし、職務としての全国戦没者追悼式典への参加が違憲でないのに靖国参拝は違憲だと言うのは、政教分離原理主義に他ならないというのが私の考え。歴史や伝統を無視して現代の我々が勝手に無宗教で慰霊するのは横暴である。首相は職務として堂々と参拝すべし)

憲法の話はともかく、戦没者の慰霊・追悼・顕彰は誰によるものであれ、それは公的な行為である。したがって、首相の参拝の公私を問うのはナンセンスである。そうであるならば、細かな参拝形式にこだわることはさして意味のない事である。ところが、今回の小泉首相の参拝は、かぎりなく一般国民と同じようなスタイルでなされた。これは多方面への配慮の結果と見るのが妥当だろう。

そう考えると、今回の小泉首相の靖国参拝は「公的」とか「私的」とか言うよりも、「政治的参拝」と呼ぶのが最もふさわしい。ここでの「政治的」とは、広辞苑によるところの「事務的ではなく、実情にあったかけひきをするさま」という意味である。

そのことの是非は、皆さんそれぞれのご意見がおありだろう。私としては首相もしくはそれにかわる国民の代表が堂々と作法にのっとって参拝することが望ましいと考える。国が靖国神社で戦死者の慰霊・顕彰することは、ある意味亡くなった方々との約束事である。

彼らは靖国で会おう、靖国に来てくれと言った。靖国で手厚く祀ることを国および遺された国民は彼らと約束した。そして彼らは戦地へ赴き、散っていった。そうした彼らの意志はどうなるのか。彼らとの約束はどうなるのか。

もちろん死者との約束を守らなければならない法的な義務など一切ないだろう。しかし、死者との約束を平気で踏みにじることにたいして、多くの国民がどう考えるのか、道義上その事に何も感じないのか。これもまた重要な問題だと思う。

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コメント
この記事へのコメント
いつも深く考えさせられます。

9.11陰謀説とか、サブプライム問題は国際金融資本が仕掛けたものだとかいう説もそれなりの説得力はありますし、考えだすと、もう訳がわかりません。

でも、何が事実かはたぶん100年後でもわからないんですから、そんなものに振り回されずに自分の足元を固めるしかないと、日村様のブログを読んでいて思うようになりました。

今の問題はそれなりに解決しなければなりませんが、
靖国問題は戦後の日本人にとってはとても多くのことを包含している案件だと思っています。
これは戦犯がどうこう言う話ではなく、日本人なら、ある程度の知識と見解は持っておくべきものであるかと。
知識が無ければ議論すらできませんが、残念ながら現状はひどいものです。

『靖国参拝』
政教分離を声高に主張する人に聞きたいのですが、あなたが政府の要人で公式に世界で認められた宗教の最高位のかたに招かれたときに、「私は公人としては宗教的な儀式には参加できません。宗教色の無い式典なら参加します」とでも言うのでしょうか。
相手がその宗教における最高のおもてなしをしたとしても、、、、
それに対して国費でお賽銭のようなものを出すことに何か問題があるんでしょうか。それが向こうの習慣なら従うのが礼儀です。
「自国に帰って、この宗教を広めてください」と言われたときにだけ、政教分離の原則をもって拒否するものです。
私には、相手の宗教観や宗教儀式を否定する、儀礼でしかないものに政教分離をとなえる人こそが宗教対立を助長する、ある意味でレイシストであるように見えます

『小泉前首相の靖国参拝について』
日村様のおっしゃる「政治的参拝」であることは明白であると思っています。
彼は首相になる前は議員仲間の誘いを断っていますし、首相になってからの紋付袴での参拝は明らかなパフォーマンスでした。
神社側からあらかじめ紋付袴という武士の正装での参拝は断られたにもかかわらず、無視して強行しました。
神社の伝統を踏みにじっています。

長くなってしまいました。
言いたかったことは、基本に立ち返る、というか基本が大事なのだということを感じた次第です。

次から次に出てくる新しい話題は、マスコミや他のブログにお任せしましょう。
はまちゃん | URL | 2008/03/18 (火) 12:50:43 [編集]
日村さま

>国が靖国神社で戦死者の慰霊・顕彰することは、ある意味亡くなった方々との約束事である。
これはまさしく仰るとおりですね。
憲法・法律以前の、共同体における規範にあたることで、法律に記述してあること以上に強制力・拘束力のある「義務」であると私は思います。

一般には、現憲法の政教分離原理主義の方々をはじめ、やけに法律を神聖視する人が多いと感じます。しかし、法律とは「共同体が持つ規範」の一部を明文化する努力の一環でしかないのであって、本体である「規範」こそが大切であり、それに相反するならば法律の方が修正されるべきはずです。そういう意識が世間一般にあまり感じられないですね。

例えば、最近は頻繁に電車内で目にする「痴漢は犯罪です」というポスター。これを見る度、日本人の質的低下を痛感して情けなくなります。
というのは、痴漢が「犯罪(=法律を犯す)」だから悪いのではなく、もともと共同体の規範を犯す行為だから悪いことなのであって、それを法律にも記述しただけのはずです。
それを、法律の方に重きを置いたようなマヌケな記述は、腹立たしさを通り過ぎて寂しさを覚えます。
『では、「犯罪」に位置付けられる前はやっても良かった』とでも思っているのでしょうか?

靖國神社のことに戻りますと、記録に辿れる限りの昔から、日本では国家(朝廷・政府)が神道・神社の維持・運営に携わってきており、それは日本という共同体では当然の規範だったはずです。
例え、英霊との約束がなかったとしても、首相が(できれば天皇陛下も・・・)職務として正々堂々と参拝することは、これまた当然であると思います。

現在の神道の惨状は、明治新政府が若干おかしなことをした影響も考えられるとはいえ、GHQの「神道令」と「偽憲法」に端を発すると思われますが、まだ効力を維持しているところが恐ろしいです。
「政教分離の原則」なんて、世界中どこを探しても存在しない原則を振りかざす輩には、早く目を覚ましてもらいたいものですね。
海驢 | URL | 2008/03/19 (水) 00:06:34 [編集]
>はまちゃん

陰謀論については私はよくわからないので、そこらへんはコメントできないのですが、基本に立ち返るという姿勢は重要だと思います。

ただ、世間の出来事とあまりにもかけはなれたことばかり書いてもなかなかスッと読んでもらえないんですよねー。

タイムリーな出来事に遭わせて基本に立ち返るようなことをそのつど書ければ良いのですが・・・。


>海驢さん

「チカンは犯罪です」のお話、なるほど、ごもっともですね。最近は法律万能論者が多くなっていますが、彼らとは私は本質的に相容れない何かを感じます。

法律万能論者は右にも左にもいますが、歴史的なものにたちかえることを忘れた悪い意味での合理主義者にしか思えません。人間をサイボーグにするつもりなんでしょうかね。
管理人 | URL | 2008/03/19 (水) 09:02:44 [編集]
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