右余極説
右翼ではなく余り極端でもなく説明したい(笑)
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いじめの原因は「平和主義」と「民主主義」
最近は、職場のいじめ、なんていうのも増えているようだ。数日前のNHKでやっていたが。それにしてもマスコミの報道に関する飽きっぽさ、刺激性の強いできごとに次々に飛びついては、流れて忘れてゆく忘れっぽさにはおどろかされる。

一時さかんにやっていた、学校のいじめ問題はどうなったのか?

そんなに忘れっぽいから、かつては「自己責任」だの「小さな政府」だの言っていた小沢一郎が、「生活が第一」なんて調子の良い逆のことを言いだして、その都合良い変わりぶりが気にならないのかもしれない。

まあ、それはどうでも良い。
以前から、いろんな人の話を聞いていて、いじめに関して私が一番面白いというか、説得力を感じた説が、「いじめの原因は民主主義」というものだった。そこに「平和主義」や「平等主義」とか「自由主義」に「ヒューマニズム」など、戦後の日本で無条件にもてはやされてきたもの、そういうあらゆるものがかかわっていると思う。

これらの「きれいごと」の暴走の1形態が「いじめ」という形であらわれているのだろう。

もちろん、いじめというのは昔からあっただろうが、昔のいじめは、あきらかな「弱い者いじめ」とか「差別」のような、わかりやすいものが中心だったのでは?と思う。そして、そういうわかりやすい「弱い者いじめ」とか「差別」みたいなことはしてはいけないという歯止めというか常識もあっただろう。

ところが、現代のいじめには、若干違ったところがある。

いじめられる対象が、かならずしも弱い者とは限らないということらしい。
みんなの空気が読めないやつとか、先生の評判が妙に良いやつ、なんか元気よくほがらかで頑張っているやつが、他の多数の生徒の嫉妬を買っていじめ(無視)にあう、ということも珍しくない。

一つはマスコミでやっているように、一生懸命頑張っている人への嫉妬心(ルサンチマン)を煽って凡人のひがみ根性を正当化するような報道が(ワイドショーを中心として)多数であるということの影響もあることだろう。

もう一つは、昔ならば、あいつ、なんか気取りやがって、とか、こいつ何か気に入らないとなったら、たとえばぶん殴るとかけっとばすとか、まあ暴力まで行かなくても、口げんかするとか、男の世界ならば、そういうことがまず先にあったような気がする。

女子はそういうことができないから、その負のエネルギーが陰湿化し、昔から女子はいじめばかりしている、というイメージが私にはずっとあった。

ところが、現代では、男も暴力や争いごとを禁じられている。とにかく人と争ってはいけない、暴力はいけない、ケンカはいけない、平和主義で行けと、日本という国が周辺諸国からいかにボコボコに叩かれていじめられても、じっと我慢しているくらいだから(笑)、そういう考え方が完全に浸透したのだろう。

だから、暴力やケンカを封じられた男も、昔の悪い意味での女みたいになり、陰湿ないじめに走るのだろう。

もちろん、ひたすら殴り合いの暴力学級みたいのが良いとは言えないが、何か気に入らなかった時に、いきなり殴るんではなくても、口げんかであってもケンカのしかたがある、戦い方があるということを、わかっていないのではないか?

口げんかでも相手を泣かせるほどにダメージを与えることはいくらでもできるし、未熟な子供同士なら、そういうことをしながら、お互いに成長してゆくものだろう。しかし今はとにかく争ってはいけない、相手の心を傷つけてはいけないという教育しかされていない。だから、人の言動に免疫がなく、すぐ傷ついてしまうのだろう。

マスコミでも、やたらと「あの有名人や政治家は、私を傷つける発言をした、許せない!」みたいは発言ばかりであることからもよくわかる。

心があまりにナイーブな人間ばかりになってしまったようだ。柳沢大臣の「産む機械」発言だの、最近では倖田來未の「羊水腐ってる」発言など。

大臣の発言はあるていど騒がれてもしょうがないかもしれないが、ヤンキー風の歌手がラジオ番組で妙は発言したくらいで驚くのもどうかしているし、謝罪が必要だとしてもそのラジオ番組で翌週にでも一言謝罪すればすむ程度の話だろう。

まあ、私もテレビ人の発言にいつもムカムカしっぱなしではあるが、しかし「傷つけられた」なんて女々しい(女性の皆さんすみません!)言い方はしない。

いずれにせよ、たとえ口げんか程度でもあらゆる争いごとの芽からすべてきれいに刈り取ってしまうような学校の環境とか、そういう平和主義がエネルギーをくすぶらせていじめを陰湿化させているのだと思う。

それから、もう一つ、いじめの原因は、民主主義とヒューマニズムの合体だという話。
民主主義というのは多数決である。多数者によって少数意見が排除されるしくみだが、少数意見だけでなく、少数者そのものが排除されることにもなっている。

また、そもそも多数意見が別に必ず正しいという根拠など何も無いわけである。そういうものを必要以上に素晴らしいかのように祭り上げる戦後の世の中もどうかしている。

多数意見が、多数者のその場の気分であったり単なる欲望であったり流行にすぎないものということが多くあり、そういう世論にもとづいて少数者を異端とみなし排除することにつながる。

学級でなされているのも、なんとなくそういう雰囲気だろう。あいつは何かちょっと違うんじゃないか?先生にひいきされている、なんか目立っている、KYだ、気に入らない、そういうたまたま多数者の側にいる者たちが気に入らない少数の人間が、偶然にいじめの対象となる。

そこにプラスされるのが、人間礼賛主義という意味でのヒューマニズムであり、このヒューマニズムというのは、人間性というものへの軽信にもとづいている。人間のやることは何であれ素晴らしい、人間の欲望を叶えることは素晴らしいのだ、という発想につながりやすい。

そして、多数決とヒューマニズムが結びつけば、少数者は人間ではない、人間に値しない、だから徹底的に排除していじめて良いという感覚になる。

まあ、一つの解釈として、なかなか面白いと思った。私は平和主義も民主主義もヒューマニズムももともと少々疑いの目で見ているので。

ちなみに、旧ブログでも似たようなことをすでに書いていたので、引用。

ーーーーーーー引用ここからーーーーーーー

2006年10月20日の旧ブログより
[社会] いじめを産む「自由・平等・人権・民主主義」

今日はちょっと話題を変えて、と言いますか、もともと政治専門のブログのつもりではなかったので、本来は世の中のことを色々と考えてみることも含めたいと思っていましたので、ちょっと別の話を・・・。

さて、最近はいじめによる自殺に関するニュースが立て続けに報道されています。しかしその報道を聞いていてかなり疑問に感じることがあります。悪いのは一体誰なのでしょうか?

「自分も先生からいじめ」=真相解明求める声も-男子自殺で三輪中生徒・福岡

 福岡県筑前町立三輪中学校2年の男子生徒(13)のいじめ自殺問題で、同校が全校生徒を対象にしたアンケートに対し、生徒らから「自分も先生からいじめを受けた」「学校が信じられない」などとする回答があったことが19日、分かった。

 自殺した生徒の母親(36)によると、学校側は自宅を訪れた際、16日に無記名で行ったアンケートの全生徒分の回答用紙を持参した。

 回答には「自分も別の先生からいじめを受けた」「体罰、暴力がある」「先生の好き嫌いによって差別された」「学校が信じられない」「誰を信じていいか分からない」など、学校への不信感が数多く書かれていた。

 中には「学校はうそをつかないで、きちんと遺族に話してほしい」と、自殺の真相解明を望む声もあったという。 
(時事通信)


この記事でまず思ったのは、生徒へのアンケートの結果をどうして無批判に信じてしまうのかということです。

色々と話を聞くと、いじめのきっかけを作った教師というのも確かにどうしようもないアホな教師のようですが、少なくとも自殺した生徒は教師にいじめられて自殺したわけではなく、同級生らからいじめられたことが直接の理由なわけです。

そう考えると、いじめた生徒たちが一番悪いに決まっています。そして、そのきっかけを作った教師が次に悪く、また子供の異変に気づかなかった親にも責任があるでしょう。そしてその次くらいに学校や教育委員会の管理責任などが問われる、順番としてはこういう感じだと思います。

このうち、一番叩きやすい教師ばかりを叩いて皆が正義の味方か救世主にでもなったつもり、そして自殺した親はやり場のない怒りをとりあえずは教師や学校に向けることで憂さ晴らししようとしていると言った感じではないかと思います。しかし親にも責任があるわけですから、それは責任のなすりつけ合いでしかないわけで、私としては親に到底共感できません。

そして一番の加害者である「いじめた生徒たち」についてはアンタッチャブルになってしまって、おまけに無邪気にも彼らにアンケートなんかしてその結果から早速教師への責任転嫁が行われています。

もちろん教師に責任があったのはその通りでしょうし、そりゃあ教師は大人ですからそれなりの責任を取らせれば良いのだと思いますが、教師叩きで終わっては無意味どころか逆効果でしょう。

肝心の加害者である子供達をどう扱うか、それが最も重要な事です。愚かな事にアンケートなんかするもんだから、加害者である子供達は自分たちの責任を完全に転嫁してしまっているのです。

本当に教育を考えるなら、いじめた子供達に徹底的に罪悪感を植え付けて反省させるとか言う意見のほうがまだ説得力があるように感じます。

「命が大切」と口先で言う割には、命を奪う側にまわった子供達については一切おとがめなしというのでは、説得力も何もあったもんじゃありません。

ところが、どうも大人達が寄ってたかって、いじめをした加害者である子供達を必死で守ろうとしているんじゃないかと私には思えます。

<文科省連絡会議>いじめ兆候の早期把握を要請 各教委に

 北海道滝川市と福岡県筑前町で児童、生徒がいじめを苦に自殺した問題で、文科省は19日、「都道府県・指定都市生徒指導担当課長緊急連絡会議」を開き、初等中等教育局長が「命を大切にする教育の充実に取り組んでいただきたい」と訴えた。また、いじめの兆候の早期把握などを求める通知を都道府県教育長らに出した。
(毎日新聞)


ここで「命の大切さ」という言葉が出いていて、ゲド戦記のCMで「命を大切にしない奴なんて大嫌いだ」みたいなのがしつこく流れて私などその安易さに不快感を感じたものですが、先日発売された「わしズム」で私の不快感を小林よしのりが見事に説明してくれています。別に頼んだわけでもないのですが。機会がありましたら読んでみてください。引用などはここではしませんんので。

教育においてもマスコミにおいても映画においても、何においても、戦争の反省から来るものなのか知りませんが、ひたすらに「命の大切さ」をくりかえし皆が唱え、そして皆の頭に刷り込まれてきたのが戦後の60年間でした。生命尊重主義、生命至上主義というやつです。

私には、その風潮に異議ととなえた人物として真っ先に三島由紀夫が連想されます。自衛隊市ヶ谷駐屯地を占拠した時に彼は「生命尊重のみで魂は死んでも良いのか?」と問うた後に、割腹自殺を遂げています。まさに、「生命以上の価値」の存在を示したわけです。

しかし、そうした三島の行動がまったく理解されず、「常軌を逸した行為」とか「狂気の沙汰」としか思われないほどに、戦後の日本では「命の大切さ」が最上の価値とされてきたのです。「人の命は地球より重い」と言った首相もいました。しかし、その結果はもたらされたのは、「生き方」に関する思考停止でした。

「命の大切さ」を言うだけではなく、「どのように生きるべきか」そして「どのように死ぬべきか」という二つの視点が完全に欠落しているのです。

生命というのは手段です。その手段の用い方を間違えば、それはもう尊くないのであって、たとえば、麻原ような人間の命など、これっぽっちも尊くないわけです。

「命そのものが最高に尊い」と言ってしまった瞬間に、「生き方によってはその命は尊くない」ことが忘れられ、ひたすら死なずに生きているのが最高だ、自分が生きるためには何をしたって良い、どんなにふしだらに自堕落に生きようが、命そのものが尊いのならそれで十分ということになってしまいます。

もっと生き方の質を問い、死の意味を考えることこそ大切だと私は思います。これについては、また別の機会にもっと書きたいと思います。

ところで上のニュースに戻りますと、滝川市の教育委員会も、いじめをなかなか認めなかったのは、上の話と同じく、いじめた側の子供を守ろうとしているのだと思います。この滝川市というのは私の出身地のごく近くの町なのですが、まあ北海道ですから戦後民主主義とサヨクヒューマニズムの聖地みたいになっていて、いかにもやりそうな土壌があると思います。

そこで、子供が自殺に追い込まれた親にしても、自分の子供を自殺に追い込んだ他の生徒たちを非難したいところが、教育委員会がいじめを認めないとなると、そういう非難もできないという事で、ごちゃごちゃしているというなら理解できます。

そうではなくて、最初の記事での話のように、いじめた当事者である生徒たちを糾弾できないから、糾弾しやすい教師や教育委員会と言った大人たちに怒りの矛先を向けることで憂さ晴らししているようなところがあるとしたら問題です。

もちろんいじめた子供達に何らかの罰や罪の意識を植え付けるような処理も必要なのかもしれませんが、まずはいじめの生じる原因を考えてみないといけないように思います。場合によってはいじめた子供の責任が問いにくい可能性もあるからです。

もしかしたら、現状ではどのような生徒であってもいじめる側にまわる可能性があり、いじめられる側にまわる可能性もあって、それを決めるのは偶然もしくは状況による可能性もあるという事です。

学校でのいじめというのが一体いつからあったのかわかりませんし、聞くところによるとかつての軍隊でもあったようですが、しかし今の小中学校でみられるいじめとかつてのそれとは、ずいぶんと異なるものなのではないでしょうか。

軍隊では階級がしっかりしていて、上官による下士官のいじめという構図ですが、今回の場合は対等で平等であるはずの同級生の間でのいじめですから。

しかも、昔の学校の教室というのは、それこそいろんな生徒や児童がごちゃまぜでしたし、ほとんど知恵遅れに近いようなのから優秀なのまで色々いましたが、最近は、わりと均質化していると思います。

実は、世の中がどんどんと平等になってくると、人々の平等化への不満がなくなるかと言うと実は逆で、まだ残る「微差」に対して過剰な不公平感や異質感を抱くということがあります。

ほとんど平等なのに、ほんのちょっとの差にたいして、著しく不公平感を募らせるというわけです。
それは学級においても同様のことが起こり、生徒間には大差なくなっているものの、その中に少しだけ人と違う生徒がいた場合に、その微差が著しく大きなものと皆が捉えるようになり、異物として排除されてしまうということが考えられないでしょうか。

そして、その排除を正当化するのが民主主義のイデオロギーです。底の浅い民主主義というのは単なる多数決のことでしかなく、この「底の浅い民主主義」が多数者による少数者の排除の論理として子供達の間にも定着し、いじめの正当化もしくはいじめの促進につながっているのだと思います。

今の学校では子供達にかなりの「自由」や「権利」が保障されて、教師の権限が制約されてしまっている事も、子供のいじめをエスカレートしやすくしています。教師から見ていじめに見えても、それを注意すると「ただふざけているだけだ」と言い逃れするでしょう。それを教師がさらにきびしく糾弾すれば、子供への人権侵害などと言われかねないのです。

そう考えると、学級における自由・平等・人権・民主主義の暴走が、深刻ないじめを産んでいると言って差し支えないように思います。

さらに言えば、それらを過剰に大切にしすぎた戦後日本の教育の、そのほとんどすべてが間違だったたと、すっぱり言っても差し支えないでしょう。

ーーーーーーー引用ここまでーーーーーーー

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コメント
この記事へのコメント
最近の中では日村様らしい渾身のエントリーかと思っています。

多数決の恐ろしさについては全く同感です。
かつてサヨクが言った、闘争のテクニックとしての「少数意見を切り捨てるな」というのとは全然違う意味ですが。

記憶があやふやなのですが、ユダヤ人は民主主義を評して
「所詮、愚民が選んだ政治家などその程度のもの。ほうっておいたら内輪もめして自滅する」
といったふうな考え方に触れたことがありますが、
現在の政治の状況を見ていると当たっていると言わざるを得ない。

子供については、
「未熟」な「もの」であるという基本的な認識が忘れられているのではないかと思います。
「もの」を「ひと」にする義務をおとなたちは背負っています。
ここでは説明の必要はないかもしれませんが、未熟とバカは全く別のものです。
かくいう私も「未熟なもの」に対して、規範を示せるか、といえば自信はありませんが、そうありたいと思うのみです。
怒るのではなく「しかる」おじいさんにならなければ。

『明日への伝言』はちょっと期待してもいいのかな。
はまちゃん | URL | 2008/03/13 (木) 10:53:16 [編集]
たしかに
私も、小中学生時分は、かなりイジメを受けました。親の職業でのイジメでした。イジメを受けたなんて言ったら、「始末してこい!代わりに監獄に入ってやる!」と尻を叩かれ、翌日は、リベンジ決めてきました。おかげで、就職の面接のときに、何度も指摘されて、生協以外内定貰えなかったですよ。教師の備忘録とやらを見せられて、びっくりしましたよ。教師は、クズの集まりなんだと、確信したくらいです。まぁ、その生協には就職せず、親のあとを継ぎましたが。まぁ、とにかく、やたら教師とかは、イジメを認めたがらないですからね。親が教師を生徒の前で、リンチしないと、認めないくらいでしょう。創価の人間革命とやらを教える、バカ教師や教育委員が4000匹いる現状では、決して解決しないでしょう。かと言って、大阪のような人権施設から、ヤクザが拉致しにきてリンチするようなのは要りませんが。とにかく、ケンカくらいは、大目に見る社会に戻ってほしいものですよ。
新四郎 | URL | 2008/03/13 (木) 10:57:22 [編集]
あとおまけ
漫画規制が、さらに激しさを増してくるようです。実質かつての名作まで、規制対象だそうです。人格権とか著作権とか煩い奴らの癖に、創価や統一と繋がっているのを傘に来て、結婚難民を増やし、中共化に拍車を掛けるようですな。麻生も賛成派ですよ。これも、一種の陰湿なイジメですな。
新四郎 | URL | 2008/03/13 (木) 12:59:39 [編集]
>はまちゃん
どうもありがとうございます。こういうタイプのは政治ブログというのとはちょっとはずれるかと思いますが、物事の考え方の根っこの部分として、わりと大事と思っています。

しばらく出張が続くため、このように旧ブログからの移植が続くかと思いますが失礼します。


>新四郎さん
いつもコメントありがとうございます。なかなかの武闘派?でいらしたようで、私は暴力全否定でもありませんので、またそういうことについても、そのうち書きましょうかね。
管理人 | URL | 2008/03/16 (日) 19:15:40 [編集]
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