右余極説
右翼ではなく余り極端でもなく説明したい(笑)
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日米で正反対な「保守」の定義
さて、昨日書きかけて今日にまわしたテーマです。これも実は過去に書いたことですが、先日、産経の古森記者のブログを読んで、また書いておきたいと思ったので、多少修正して転載しておきたいと思います。

後半部分は転載ではなく、今回新しく書いた文章になっています。
ポチ保守度チェック
ちょっと昨日今日とバタバタしてまして、前の文章へのレスもまだですが、申し訳ありませんが、レスは後回しにさせていただきまして、今日は更新だけを・・・。

先日、古森義久氏のブログを紹介しましたが、親米保守という方々は日米での保守というものの意味合いの違いについて、かなり無頓着であると思います。いや、アメリカが好きすぎて、同化欲求が強いために、あえて同じだと思いたいのかもしれません。

その話を書いた時に、旧ブログで、日米での「保守」というものの意味の違いを書いた記憶があったので、今日はそちらから一部書き換えて転載しておきたいと思ったのですが、それは明日にまわして、今日は旧ブログで書いていた「ポチ保守度チェック」というのをやってみたいと思います。

2006年の9月のものですから、ちょっと古いですが・・・
糞リアリズムを持ち出すべからず
今回の内容は、旧ブログに書いたことの焼き直しです。

ブロガーが政治家や外交官を気取って見せて、そういう政策は現実的にはこれこれこういう理由で不可能だし、それは仕方のないことだ・・・なんて言うのが私は大嫌いです。

そもそも、ブログに限らず、評論家でも学者でもそうなのですが、私が一番疑問に思うのは、彼ら自らがまるで政治家や外交官にでもなったつもりで、政治を「リアリズム」という観点から語り、まあようするに政治家や外交官らは妥協しなきゃやっていけないんだという彼らの行動を弁護・擁護することです。これって、どうなのでしょうか?たんなる御用学者、御用評論家ではありませんか?

まあ特定の政治家の支持者であるというならそれは一行にかまいませんし、むしろ弁護したり擁護したりするのがその人の役割でしょうが、ただ、その場合でもそのことを一言はっきりと断ってから弁護・擁護するのがマナーかと思います。

では、それ以外の一般の学者や評論家が、まるで自分が特定の政治家や外交官になったつもりで彼らの行動を(たんなる解説を超えて)弁護・擁護するような態度に私が少なからぬ疑問をなぜ抱くかと言いますと・・・。

チベット問題ふたたび!
日頃からマスコミを批判して、マスコミを警戒せよ!とくりかえし言っている私ですが、そのくせ、自分もすっかりマスコミに乗せられていた、ということが最近ありました。チベット問題です。

私は、先日おこったチベットでの暴動のきっかけが、漢民族とチベット人の経済格差がひろがっていることに不満をもったチベット人が起こしたもの・・・というニュース報道をまにうけてしまい、「なんだ、所詮はチベット人も金の話か」「文化的な弾圧や自分たちのアイデンティティーよりも経済的な不平等のほうに怒るのか」などと思ってしまい、いまひとつチチベットの人たちへの共感がおこらなかったということがあります。しかし、これは間違いでした。

私自身のチベット問題への論調としては、中国を非難せよという点では一貫していたとは思いますが、チベット人への認識では多少ブレていましたし、間違いもあったと思います。

チベットでの暴動の原因が「経済格差」であるというマスコミ報道を私はすっかり信じてしまっていたという点で「マスコミに乗せられていた」わけですが、私自身も、いつのまにか日本人の価値観でものごとを見ていたところがあったのだろうと思います。
米中蜜月時代の到来
先日は、産経の古森記者のブログを紹介しましたが、そのコメント欄はすさまじいものでした。少しでも日本の自主性を主張すると「左翼の日米分断工作だ」という、これこそ一種のアメリカの日本属国化工作ではないかと思えるようなコメントの嵐です。

しかし、彼らは、日本がひたすらアメリカの言うことを聞いてさえすれば、アメリカは日本にずっと良くふるまってくれると信じているのでしょうか?

現実には、すでにアブナイ兆候が見られます。アメリカは自国の国益至上主義の国ですから、日本と組むのが得策と思えばそうする、そうでなければ中国と組むことすらあるのです。

そして、アメリカが日本と組むのが得策と思わせるためには、ただひたすら相手の言うことを聞くだけの「都合の良い存在」でいれば良いという訳ではありません。

不謹慎を承知で男女関係に喩えて言うなら、アメリカは力があってもてもてのプレイボーイみたいなものです。相手の言うなりの都合の良い女はいつ捨てられるかわからないのです。都合の良い女の末路が日本の姿かもしれません。

ところで、米中接近が今後大きく進むであろうという予測は、かなりの人たちがしていることです。

「後期高齢者医療制度」騒動は誰の責任なのか?
私はこの、「後期高齢者医療制度」の問題については、実はあまりよくわかっていません。ただ一つ言えることは、医療制度にかかわらず、年金や他の保険制度や納税についても、あまり低所得者とか稼ぎの無い人に均一に負担を求めても無理だということです。

税金でも何でも、今、低所得者に負担を求めすぎ、高額所得者や余裕のある人間への負担が軽すぎると思います。どうしてそういう声があがらないのか不思議です。どうせ海外へ逃げるとか言うんでしょうが、結局、高額所得者ほど累進的に納税してくれないと、国は持たないということがだんだん明らかになってきているのだと思います。このことについては、また別の機会に書きたいと思います。今日はそのことではありません。
産経の古森記者は保守を誤解している
産経新聞のワシントン駐在員である古森義久氏がブログをされているようです。この方、親米保守の部類に入られるのだろうと思いますが、こういう方が保守を自称されることが、保守とは何か混乱させてしまう一因になっていると思います。

別に保守だから上だとか言いたいわけではありませんが、しかし保守とは何かまるきりわかっていない人に保守を騙らないでいただきたいとは思います。

これ以上、「保守」という概念を混乱させないでいただきたい。
お知らせ
ちょっと業務多忙につき、今日は更新を休ませていただきます。明日はなんとか書けると思います。

レスも明日以降になるかと思いますが、すみません、よろしくお願い致します。
違憲「判決」?裁判の政治宣伝への利用とイラク戦争
自衛隊のイラク派遣について、「違憲判決が出た!」などと言っていましたが、よくみると、いつもの「左翼裁判官の独り言を裁判所の判決であるかのように騙る」というウソ話でした。傍論の暴論というやつでしょうか。

この問題は、イラク戦争をどう捉えるかという話と別問題です。憲法9条がどうとか言う話でもありません。マスコミの偏向報道の問題です。イラク戦争への自衛隊派兵の是非についてはまともな議論がなかったのはその通りですが、左翼のこのやり方は卑劣です。

もう国民もいいかげんに、左翼による裁判の政治的宣伝利用に気づいたらどうでしょうか。というか、気づいてうんざりしているというのが正直なところではないかと思います。
チベットでのホロコーストを見過ごしにするな!
チベット問題については今まで2回ほど書いてきました。

「チベット問題で大切なこと」では、自由とか人権とかいう西欧的というか普遍的な価値ではなく、あくまでチベット人の文化が守られること、チベット人としての自由や権利が守られることが重要であると書きました。

「チベット問題ではなくチベットの問題」では、暴力否定というアイデンティテイーへの反共感と、そのアイデンティテイーでは彼らの文化は守れないだろうという矛盾について考えました。

この過程では貴重な議論をさせていただくことができて得るものが多かったですし、一部認識を改めた部分もあります。

ところが、どうもこの過程で、私は重大な論点を見落としていたことに気づきました。私はチベット問題において、「自由」とか「人権」とかいうものが前面に出た抗議の仕方を嫌うあまり、もっと主張すべき重大な論点を置き去りにしていたように思います。「民間人の大量虐殺」を許しては行けないという視点です。

前にブログでこの問題について書いた時点で、私の最終的な意見は、この問題については日本の国益という観点から中国を批判すべしという程度のものでした。

しかし、今から考えると、これは中国批判としてはかなり弱いと思います。二国間の国益が衝突するのは日常ありふれたことだからです。

チベット問題では各国の狭い意味での国益という観点だけから考えるべき問題ではなく、もちろん普遍的な「自由」だの「人権」だの言う問題でもなく、もっと大きな国際社会の枠組みを維持するための常識という点で重要な主張がなされるべきなのです。

それは、「ジェノサイド」や「ホロコースト」を決して許してはならないという点です。これらは、特定人種の民間人の大量殺戮というような意味ですが、ここには文化的な意味でのホロコースト、他の文化が別の文化を力で滅ぼそうとすることを含めても良いと思います。
映画「靖国」問題のまとめ
映画「靖国」の問題について、先週までに3つほど文章を書いてきました。
映画「靖国」上映中止に見るご都合主義的な表現の自由
「見て批判を」は卑劣な言い方
言論の不自由
どれもわりと好評だったのではないかと勝手に思っています。その後、新たにいろいろな情報も目にすることがありましたので、ここで最終的なまとめをここでしておきたいと思います。以下の4点について結論をまとめておきたいと思います。

【マスコミによる弾圧こそ問題】
【映画「靖国」への助成は不適切】
【稲田議員の活動は検閲ではない】
【映画「靖国」の違法性と背徳性】

男女共同参画とか女性の「社会進出」とは?
私は理系の教育・研究職についていまして、いくつか学会に所属もしているのですが、最近よく男女共同参画に関するアンケートを求められたりすることがあります。女性科学者の権利を認めるための内容です。

また学会の会報誌に男女共同参画を積極的に推進すべしといった意見が載ったりするのを目にするようにもなりました。そこに見えるのは、とりあえず我が国の科学技術の発展云々よりも女性科学者をもっと増やすべきとか女性の意志が反映される組織運営をすべしと言った意見です。
政治を右から批判することの重要性
戦後、日本の政治や社会が極端に左傾化した理由を考えてみると、それはやっぱりマスコミが進歩的文化人の理屈や彼らのイデオロギーにもとづくフィルターを通した報道をくりかえす事によって、世論を左へ左へと誘導したからだと思います。

そこでなされる言論のほとんどが、政治や権力に対する左からの批判ばかりでした。つまり、政治は常に左からの批判にさらされ、また左寄りのメディアが国民への影響力を強く持っているからには、国民によって選ばれるしかない政治家たちがメディアの批判に腰砕けになりジワジワと世論に迎合して、どんどん左傾化していったのではないかと思います。

一方、「保守」と呼ばれる勢力も存在はしていたでしょうが、実際にはそれらのかなりの部分は単に現状維持派であったり、権力に迎合するだけ政権をマンセーするだけのような批判力の欠如した人々であったのだと思います。
東亜百年戦争という視点
このところ、映画「靖国」とかチベット問題など、わりと最近の時事問題を中心に書いてきましたので、世間の流れとは別の話題も書いておきたいとお思います。

今日の話は、旧ブログからのほとんどまるごと転載になりますが、以前に読んだ本でなかなか良かったものを紹介している文章なので、こちらのブログに移転しておきたいと思います。以下の4つの本です。

佐藤優「日米開戦の真実~大川周明『米英東亜侵略史』を読み解く」
林房雄「大東亜戦争肯定論」
富岡幸一郎「新大東亜戦争肯定論」
中村粲「大東亜戦争への道」
「チベット問題」ではなく「チベットの問題」
昨日のエントリー「チベット問題で大切なこと」のコメント欄でmukkeさんという方から、大変有意義なご指摘をいただきましたこちら。感謝です。

実は、耕さんからいただいた二つ目のトラックバック先の文章「チベット問題を理解する上で何が必要なのか」を読ませていただきて気づいたことなのですが、私はチベットもダライ・ラマもチベット仏教も、どれも、あまり好きではない、共感できないという点です。なので、この問題については書くべきではありませんでした。

結局は私も、中国を攻撃する手段としてチベット問題を持ち出してきたにすぎないということです。

もちろんチベット人からすれば、別にチベット仏教に共感してもらう必要もなく、今は何でも良いから中国を非難して欲しいのかもしれませんが。
チベット問題で大切なこと
さて、今日も留守にしているので、これまた予約投稿です。レスは遅くなると思います。というか、映画「靖国」の話へのレスはもうしません。あとの議論は皆さんにおまかせします。

ところで今日の話題へ・・・。チベット弾圧の問題をうけて、現在ヨーロッパを走行中の聖火リレーが抗議を受けてまともに走れない状態になっているようです。

私も長野に聖火がやってきたら、妨害のために突っ込んでみようかと思っています。
言論の不自由
マスコミの役割は権力の監視だなんて事が言われたりする。というか、マスコミ連中は自分たちを「権力の監視者」などと僭称している。

では、マスコミは権力より偉いのか?それこそ、国家権力以上の権力ではないか。では、そのマスコミ権力の監視はだれがやるのか?権力が暴走すると言うなら、マスコミこそ監視されねばならない対象である。

このように、マスコミに対してはいろいろと疑問を感じていた。たしかに権力の暴走をチェックする機能は必要かもしれないが、マスコミにそんな能力も資格もそもそも無いのではないかという気がしている。

そもそも、日本における主権者は国民ということになっているのだから、それが正しいというのならば、権力の監視とは、国民の監視、国民世論のコントロールということになる。そして、マスコミはそれをその通り巧妙にやっている。

マスコミによる国家権力の批判は、マスコミが大衆世論をうまくコントロールするための一つの方法にすぎぬものなのである。そんなマスコミの垂れ流す言説を言葉通りに受け取るのはナイーブの度が過ぎるというものだ。

ついでに言っておくと、「憲法は国家権力の暴走から国民を守るものである」なんてことを左翼は言うが、これもまるでデタラメである。デタラメな理由はいくつもあるが、一つわかりやすいのは、民主制の下で国民主権を徹底させれば、民意や世論こそが国家権力を暴走させかねないのであるという点である。左翼はこの簡単な矛盾に気づくことすら無い、ましてや深く考えるオツムなどは無いようである。気楽な人たちだ。
「城内みのる」応援サイト
喜八さん」からお誘いをいただいて、「城内みのる応援サイト」と相互リンクさせていただくことにしました。

そのちょっと前に、喜八さんが左派とも組んでいることを私は軽く批判したりもしたのですが、そういう細かい違いに囚われずに大切なことを進めてゆこうというタイプの方のようです。

私はかつて、ブロガーの連携を呼びかけるようなことにクビを突っ込み小銭を巻き上げられるような詐欺にあったこともあるので、ブロガー同盟みたいのは一切やめておこうと思っていたのですが、城内氏を応援するサイトなら話は別です。
「見て批判を」は卑劣な言い方(映画「靖国」)
映画「靖国」について、数日前に書きましたが(映画「靖国」上映中止に見るご都合主義的な「表現の自由」)、このコメント欄で、一人のコメントの書き方が多少皮肉っぽかったことに私が逆上してしまって、自らコメント欄を荒らすというような醜態を晒してしまいましたが、まあそうやって人格もさらすことで、信用を得ることもあれば、今回のように失うこともある、笑われることもあるというのは当然のことです。

私はこのブログで時々「道徳」だの何だのと、かなり偉そうなことを書くことが多いですが、日常生活はホント、小市民ですから、まあ実際の自分に近いものをたまには正直に出せればと思って、コメント欄で暴れてみました(笑)。

それはどうでもよくて、映画「靖国」の話題ですが、「批判するなら映画を見てから」ということが当たり前のように言われていますが、これなど、逃げもしくは偽善のさいたるもので、卑怯者の常套句だと思います。
豪州という新たな反日国家を締め上げよ
本日はでかけていますので、これは予約投稿です。レスなど遅くなると思いますがご容赦下さい。また、コメント欄の対応でカッカしたままのテンションで、感情にまかせて書いてみたいと思います。

さて、捕鯨問題が関連しているとは言え、このところのオーストラリア政府やその首相はちょっとおかしいと思いますし、さらには、オーストラリア人の差別主義的反日世論も盛り上がっているようです。腹立たしい限りですが、日本は何もできないのでしょうか。

日本人で老後にオーストラリアに移住したりという人が結構いるみたいですが、どんな思いで生活しているんでしょうかね。美味しんぼの原作者のサヨクおやじも確かオーストラリア在住かと記憶していますが、彼なんかは今頃どうしているでしょうか(笑)。

まあ、年を取ってからのんびり暮らすためとは言え、祖国や故郷を捨てる人間を私はあまり好きではありませんので、せいぜい差別されるがいいや、という程度の感想しかありませんが・・・。
新自由主義が跋扈した背景
サッチャーやレーガンがやって、一度は失敗しかけた「新自由主義」というイデオロギーがあいかわらず猛威をふるっているのか、ずっと気になっていました。

それが、偶然、今読んでいる本に書かれていて、なるほどと腑に落ちたので、今日はその引用を中心に書いておきたいと思います。
映画「靖国」上映中止に見るご都合主義的な「表現の自由」
今日は二つアップします。もしかして明日は更新を休むかもしれません。

映画「靖国」が上映中止に追い込まれたということで、騒ぎになっています。靖国神社に偏見を植え付けるような内容だということのようですが、映画館がこの映画を公序良俗に反すると判断して自主的に上映をやめた訳ではないようです。

どうも、街宣車がやってきて騒ぎになることを恐れて上映中止を決めたというのが本当のところのようです。
不徳をばらまく「変化」とは
世の中に蔓延する「進歩主義」は社会の制度を次々に「改革」してきましたが、この思想の根底には「進歩は良い結果をもたらす」という盲信があるわけです。

基本的に科学や技術というのは常に進歩しています。科学技術が支配する世の中では、すべて世の中は進歩しているという誤解が生じやすいでしょう。人間そのものは何も変わっていません。

また大衆民主主義社会、資本主義社会においては多くの大衆の消費によって社会がなりたっている以上、次々と新しい商品を提供することによって人々の購買欲を刺激し続けなければなりません。欲望への刺激は同じレベルにあってはすぐに麻痺するものである以上、売り続けるため、さらなる欲望を刺激するためには、常に改良と進歩、変革と、とにかく変化が必要になってきます。

かくして近代以降の世の中においては、「理念としての進歩主義」、「科学技術の進歩を人類の叡智の進歩とする大いなる誤解」、「欲望に依存する資本主義経済」とそれを支える「技術主義・合理主義」といったものが社会を急激に変化させ続けます。

ホリエモンや村上ファンド的な拝金主義はアメリカからの輸入みたいもんですが、こうした進歩主義・変化主義の当然の結果として生まれたものでしょう。

細かく見るとホリエモンは拝金主義とか純粋な金儲けというより、拝金主義の時代にあって、「金儲け出来る人間=立派な人間と見なされる」という彼なりの名誉を求める歪んだ心情みたいものがあったようにも思いますが、ともかく「稼ぐが勝ち」と言った発想は、時代がコロコロと変化する世の中につきものであると思います。

具体的にどういうことかと言いますと、だいたい以下のようなことです。
「変化」は良いことか
戦後の日本に限った話ではなく、ともかく近代以降の社会では、「変化」というものを無条件に良きもの、歓迎すべきこととであるという思いこみが強く支配していると思います。

その時代の世がどうしようもなく、これ以上悪くなることが無いとしか考えられないような場合に限って、変化してもそれ以上悪くなることが無いから、変化=良いこと、というだけの話で、基本的に、近代以降は、変化したからと言ってその変化が良い方向へ向かわせるものとは限らないのは、少し考えればわかることです。
改革の正体
さて、今日は4月1日で新年度ですね。ここ最近になって、ようやく新自由主義に基づく改革への批判も、以前よりは話を聞いて貰える風潮になってきたように思います。そこで、過去の、旧ブログのほうから、それに関連した話をちょっと転載してゆこうと思います。

今回は、2006年9月に書いたものです。
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