紆余曲折 - それが人生 -
いろいろあって、政治ブログからただのブログへ・・・

一度はブログ終了宣言をしたものの、何かを吐き出したい欲求に逆らえず・・・

ただし、政治ブログとしては続けるつもりはありません。雑多なものになるかと思います。

世論調査・無意味論
今日は調子が良いので、短めのをもう一つ。午後から忙しくなるので、またしばらく音信不通になるかもしれません。




支持率が8割とか9割とかいう首相や知事などが、もしいるとしたら、それは、そもそも世論(つまり世の中の大多数の人間)というものが、政治を他人事のショーとしてしか見ていないことの証拠だと思う。

同じ意味で、支持率が一桁とか10数パーセントであっても同じである。

他人事、自分に無関係と思うから、簡単に支持したり、ダメと言ったりするのだろう。自分も政治に責任があり、国民にもそれなりの義務があると考えるなら、政治を他人事の目線でその場の感情で支持したりしなかったりなど、そういう愚問にいちいち簡単に答えられるはずがないだろう。

世論調査で政治の流れを決めるなら、マスコミは世論調査に回答した人間の素性をすべて明かすべきだろう。

不特定多数で誰かもわからない、何の責任も持たない取らない人間の意見は、いくら数が多かろうが、聞くだけ無駄である。
臓器移植
さて、またまたしばらくの放置状態が続いてしまったが・・・来て下さる方もずいぶん減ったが、たまに覗いてくれる人がいれば良いというスタンスで・・・

ちょっと前に臓器移植法の改正案が衆議院を通過した。まだ参議院で決議されていないので、改正されたわけではない。

しかし、いちばん緩いA案が可決されたが、日本人の死生観もずいぶん変わったものだ。

いや、たぶんたいして議論していない、困っている人がいるから何とかしようという目先のことだけでのものだろうと思うが、臓器移植というのは、しないのも地獄だが、すれば天国という訳ではないと思うのだが・・・。

生きている人間のためには死んだ人間の肉体は材料ととらえても良いという考え、もしくは、そこまで行かなくても、死とは何かという問題、つまり脳死は本当に死んでいる状態なかどうかという事はどうでも良いと言えるのか。

私個人としては、脳、それも大脳の自我に関する部分がやられたらもう自分は死んでいるとみなされても一向にかまわない、むしろ、その状態では生きていたくないとすら思うし、人間の肉体など精神がなければたんなる物質と考えても、私自身はかまわないとすら思うが・・・

しかし、脳については未知なことが多い。特に子供の脳はまだ可能性がある。

12歳以下の子供が脳死した場合、そこから臓器を取り出して移植するわけだが、そんなことして大丈夫のか!?という話はまだ結論が出たとは言えない。

今後、研究や医療技術がすすみ、子供の脳死と大人の脳死が違うとわかった場合、子供の脳死を死と判定して、後からそれがひっくりかえった場合、どうするのか。もしそうならば、まだ生きていられた子供を殺してそこから臓器を取り出したことになる。移植を受けた人も苦しむことになるだろう。脳死の問題はまだ結論がついていない。とくに小さい子供の場合はわからない。

何より忘れられているのは、臓器移植すれば、バラ色の人生が待っているという訳ではなく、移植してもその後の拒絶反応やらさまざまな苦難が待ち受けているのであって、移植を受けた者が健常者並みに生活して行くことは不可能、場合によっては死ぬより苦しいこともあり得るのだが、生きているという状態は死んでさえいなければ、それで良いものと言えるのか。まあ、最近の価値観では死にさえしなければ良いみたいに思っている人が多いから、私には到底理解不能である。

このように考えることは山ほどあるが、そういうことを今の国会議員たちがまともに考えたとも思えないし、そもそも考える能力があるとも思えない。

なんとなく、かわいそうな人がいて、そういう人のために、という程度の底の浅い人気取りで今の政治家はすべて動いているような気がしてしょうがない。

それももちろん、マスコミのせいだが、日本のマスコミは目線を低くするほど良いと思っているところがある。国民の目線という意味不明のことを言う政治家も多いが、そのことについては、また時間ができた時にでも書いてみたい。

ということで、話が脱線してきたので、ここらで・・・
ばらまき批判は妥当か?
政府の経済対策にはいろいろなものがある。

定額給付金などはまさにばらまきだと思うが、それ以外にもいろいろな政策があって、補正予算も組んでやっている。

そういう景気刺激策についてまでばらまきだと批判する人もいる。

今ばらまいておいて、いずれ増税するつもりだろうとか言ったりして・・・そういう批判はどうなのだろうか?
選挙ポスター
ちょっと変わったポスターを見かけました。
迷い
人はなぜ、迷うのだろうか・・・

一つには、自由だから迷うということがある。

自由で何をしても良い、どちらを選んでも良いと言われると、何か選択や判断をする「基準」を持たなければ何をどういう順番でして良いのか、決められずに迷うだろう。

良く言われる話かとは思うが、自由にして良い、何をしても良いのだと言われても、何をしてよいかわからないと、何もせずに引きこもってしまうということもあるかもしれない。

こうすべきだ!とりあえず人にそう言ってもらえることが出発点になることもある。個人なり社会なに「こうすべきだ」という常識があれば、若者もそう迷うことは無いと思うのだがどうだろうか・・・

健全な常識が無くなれば人は何を基準にして行動するか・・・たぶん「欲望」ということくらいしか無くなってしまうのではなかろうか?


しかし皮肉なことに、もう一つ、迷う理由・・・

いくつかの選択肢の中から、どちらか一つのみを選ばなければならない場合に何故迷うかを考えると面白い。この場合、欲が迷わせているということがある。

一つを選ぶということは、残りを捨てるということでもある。

どちらも捨てがたい・・・どちらも欲しい・・・その欲こそが迷いのもとである。

ビュリダンのロバという話を聞いたことがある。

空腹のロバの目の前に、二つのエサを左右等距離に置く。

すると、ロバはどちらを選んで良いか躊躇し、どちらも選ぶことができずに固まってしまい、最後は餓死するというお話だったと思う。

実際のロバで実験してみれば、たぶんランダムにどちらかに走ってエサを食うだけだろうから、これは単なるたとえ話にすぎないと言ってしまえばそれまでだが、しかし、なかなかうまいたとえ話だと思う。

人は欲で迷う。

要するに迷うことには、個人の資質として決断力の欠如という場合もあるだろうが、決断力を低下させる外的な要因としては「自由」と「基準の欠落した社会」ということがあり、内的な要因としては「己の欲望」ということがあるのかなあと思った。

それにしても、現代社会は自由社会であり資本主義は人々の欲望をひたすらかきたてる側面があるからには、個人にとっても迷い多き時代であるのは間違いなさそうだ・・・
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